2011年07月03日

遊戯王ZEXAL11話〜12話から学ぶいじめの正体

最近アニメが面白いで話題の遊戯王ZEXALですが、11話目にして恐ろしいまでに鋭い描写を行っていて感嘆したので、長らくやってなかったブログを更新します。

遊戯王ZEXAL11話〜12話の主題は「競争で一番になるということは、実は辛いこと。なぜなら、一番は人を孤独にするから」ということに尽きると思います。

カードゲームで常勝不敗の選手がいるとします。一人が勝ちすぎると周りの人間は負け続けます。そうすると、周囲の子はその子に勝てないわけだから、必然的にその子と周囲に上下関係ができ、常勝側が上、負け続けている周囲の子どもが下という人間関係の上下関係ができます。

じゃあ、勝てるように努力すればとなるが、努力してもなかなか勝てない子もいるし、楽して何とかしようとかいう人間もいると思います。それでも、どうしてもメンツを保ちたい負け組の子どもたち側は、その子への陰湿な攻撃を始めます。」そうすると、ゲーム以外の手段で攻撃を始める。その正体が「いじめ」なのです。

今回の話では、優勝候補のシャークがイカサマをしたという記事が出ていましたが、何のことはない。他の勝てそうにないと思った選手たちが、強そうなシャークを何とか排除しようしただけなんですね。

しかも、シャークにも敗北への恐れがありましたから、ついつい相手のデッキをてしまった。見たことには変わりはないのですから、いかさまはいかさま。反則負けは妥当です。こういう一連の流れから、ショックを受けたシャークは不良となってしまいました。

そしてシャークが前回打ち負かした遊馬とタッグをくんだのは、遊馬が自分のことを「ともだち」と言ってくれたからだと思います。だから、「皇の鍵」を手にしても壊さずに遊馬に返しました。また、タッグを組んだ最中でも遊馬は勝負への恐れを吐露しました。そこにシャークは彼に共感を覚えたのでしょう。

今回の話から、強者は弱者の気持ちを考えてあげる必要があるというメッセージが読み取れます。トーナメントの時などは別として普通に友だち同士でカードするとき時は、たまにわざと負けて相手のプライドを保ってあげる。そうすると、ゲームをしている子ども同士の友達関係も必然的に良くなると思います。

逆にトーナメント優勝などの公の競技でない限り、「たまには負けてあげる」というくらいの器量がなければ強者とは言えないのではないか。カードゲームなら、戦争のように生き死にがかかわっているわけじゃないのだから常勝不敗でいなくたって良い。負けても何も失うものはないはず。

競争は必然的に勝ち負けすなわち、上下を生み出します。そして上下は上の物が下の物を見下すという偏見を生みだす温床となるのです。その偏見を下にいる人は恐れる。だから人間は、自分は上側にいようとするのです。下側にいると偏見から自分がバカにされるなど、いじめの対象になるのだから。

しかし、あんまりぬきんでた上の人間も総すかんを食らう可能性があります。下側にいる人間たちからねたみを買って集団で総攻撃を食らってしまいかねません。カードゲームなら、その強い人の相手をしない・いかさま呼ばわりしてゲーム界から抹殺するなどでしょうか。(劇中のシャークはこの類ですね)

別にこれがカードゲームでなくたっていいんです。たとえば、「勉強」だとか「容姿」だとか何でもよい。とりあえず、ぬきんでている奴もしくは弱者を容赦なくいろいろな手段で追い込んでいく。これも「いじめ」なんです。

だから、今の子どもたちは空気を読む世代になってしまいました。ぬきんでた実力をなまじ持ってしまうと、たたかれる。そしてあまりに下の位置にいすぎて孤立していても、さびしいし強者から攻撃される危険性があるので、適当に友だちと群れたがり空気を読みあい本音の言えない「友だち地獄」が完成します。

「孤独」に耐えられるほどの精神的な強さがあればいいですが、今の世の中大人でもそんな強さは持ち合わせていません。いわんや子どもをや。子どもは素直に思ったことを実行しますから、大人が思っているような「純粋」な存在ではありません。

そこであえて「かっとビング」と称して「チャレンジすることの大切さ」「勝っても負けてもゲームって楽しいじゃない」「負けたってなにも失うことはないんだよ」「弱い人たちの気持ちも考えないとだめなんだよ」というメッセージをZEXALは発しようとしているのだと思います。

今の時代にこのメッセージを伝えようとしている遊戯王ZEXALはすごすぎます。さすが、10年以上アニメが続いているシリーズだと思います。私はこのシリーズが好きになりました。
posted by ブラック・マジシャン at 06:28| 兵庫 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | カードゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月31日

他者の中に自分を、自分の中に他者を見出す

能力的存在としての子ども
教育に関連して、大人の子どもを見る時の視点が「できる/できない」に焦点が行きがちであることを指摘しました。子どもはいわば、能力的存在になっていて、勉強、スポーツ、習い事などの能力を身につけることを要求される存在になっていることを指摘しました。つまり、子どもは「これこれできるようになりなさい」と塾や習い事に行かされ、能力を身につけることを要求され、あてにされる存在になっている、それが能力的存在というわけです。

子どもは4年生になるまでは期待にこたえ続けるが、それを過ぎてしまうと押しつぶされるか、大人に反抗するなり、問題になるということです。先に紹介した本でも、子どもが期待にこたえられずに苦しんでいる姿が説明されていました。

「取り柄」の本当の意味
次の学習指導要領では、学力向上がうたわれていますが、金森先生は子どもを学力向上の対象者としてしか見ていないことを懸念していらっしゃいました。結局のところ、大人たちは子どもたち一人一人の人格面を評価しているわけではないと。

「取り柄」という言葉がありますが、今と昔で意味が変わってしまっている指摘しました。つまり、今の取り柄とはその人の能力をさす。その人が何ができるのか、それが役に立つのかが大事と思われています。

しかし、昔の取り柄の意味はその人の人格にかかわること。たとえば、気は優しくてまじめな性格であるとかそういったその人の人格にかかわるものが取り柄でした。子どもたちを見る時は、人格面も認める必要があるわけです。

「持つこと」ではなく「あること」が大事
結局、今の教育というのは子どもたちに「持つこと」を強いている側面があるということです。つまり、できうる限りの能力を子どもたちに「持たせ」ようとしている。また、学校側もよりよい教育のために様々な設備を持とうともしています。

しかし、金森先生は持つことよりもあることが大事だと説いていました。教員側に求められることは子どもたちに能力を持たせることでも、設備を充実させることではなく、おかれた環境下の相手から学ぶ姿勢を持つ。目の前に「あるもの」を自分を読み解くために使い、自分自身が分かっていくことが必要だということ。目の前にあるもので、学びあう関係性を子どもたちの中に作り、置かれた関係でどう「ある」べきかを考えることが大事だということでした。

そのためにはこの世を読み解く力、すなわち分析力が必要になるということです。

高校生をぶち破れ!

新任教師としての心構えは何をすべき?
posted by ブラック・マジシャン at 03:25| 兵庫 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 勉強・学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

心に人を住まわせる、心に定員はない

1つ前の記事に関連して、去年の1月30日に自分の大学院で金森先生の講演会があり、またとないチャンスと思い参加しました。本当はその日に感想を上げたかったのですが、いろいろあって1年後と相成りました。ちょうど、金森先生の本を読んで火がついたのでその当時のレジュメを引っ張り出し、感想を書こうと思います。ただ、自分のメモ書きを参考にして思い出して書いているため、話が前後していたり、内容が間違っていたりすることがあることがありますが、ご了承ください。

まず自分がやったのはこの講演会の予習でした。そのために、前日に手持ちの「涙と笑いのハッピークラス 4年1組 命の授業」のビデオを鑑賞、さらに手持ちの新書で扱われていた自分の引っかかっていたテーマを金森先生にぶつけるために予習していました。

具体的に読んだ新書は2点。1つ目は土井隆義氏が著した『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル』、そしてもう一つが原田曜平氏の著した『近頃の若者はなぜダメなのか 携帯世代と「新村社会」』です。この2冊の新書は共通して現在の若者に蔓延する他者に過剰に同調しなければならない、すなわち「空気を読む」という若者の息苦しい風潮が取り扱われていました。(これらの新書の感想は機会があれば書きたいなと思っています)

この当時、個人的なことで自分も苦しんでいたわけですが、それも手伝って「若者はつながりを求めているのに、他者とぶつかることを極端に恐れ、本音の言える真の人間関係が築けていない。その中で我々はどのように他者とつながればいいのか」ということを金森先生にぶつけてみようと考えて講演会に臨みました。

金森先生の第一印象
会場に入ると、例の涙と笑いのハッピークラスが上映されていました。その前に金森先生が控えていた形になります。とりあえず、開始直前に入ったので席は後ろのほうで講演を聞くことにしました。

金森先生の第一印象はテレビで出ていたそのまんまの人だなあという印象でした。つまり、明朗活発なしゃべりでぐいぐい話に引き込まれる。長年小学校の教師を勤めており、定年を迎えて一線を退いているような人には見えませんでした。こういうしゃべりができると、生徒が飽きなくて済むのですが・・・。

「手紙ノート」についての説明
まず金森先生がお話されたことは、ちょうど直前に上映されていたハッピークラスの説明でした。テレビでは描かれていなかった裏事情の話をいろいろと聞かせてくれました。

まず、手紙ノートは金森先生のクラスでのみの実践で「制度としての学校としてはやらない」ことを話してくれました。手紙ノートは、子どもがその日伝えたい人に伝えるもので、前日に病気で休んだ人が一番最初に発表する。そしてそれに子どもたちが「返信」するというわけです。これは朝の学級活動の時に行うとのこと。

「返信」は意見のある人を立たせて発言させていく形になるのですが、基本的に子どもは何でもかんでもしゃべり続けてしまい、収拾がつかなくなることがあるので基本的に3〜4人程度で止める。ただし、「重要な案件」の場合は授業時間を削ってでも全員に話させるとのことです。

『ハッピークラス』で描かれた死
『ハッピークラス』ではある男の子のおばあちゃんが亡くなり、そのことをその男の子が手紙ノートで発表していました。基本的にこの手の「死」についての話題は学校では避けようとすることを金森先生は指摘、話題にしたとしても子どもたちは口をあけ、周囲は聞いていない状況になってしまうと述べていました。

また、3歳の時に父親を亡くした女の子の背景も教えてくれました。父親の死因は過労死、しかも母親は第2子の出産で入院していました。父親の死と第2子の誕生が同時に起きたわけです。そして、家にいたその女の子は、齢3歳にして父親が動かなくなったことを病院に一人で電話し、知らせたとのこと。テレビでは描かれていませんでしたが、このような背景があったそうなのです。誰しもが生きる過程で見えないドラマを持っている。そのことを常に頭に入れておくのが大事というわけです。

この話をしたうえで、金森先生は「安易な同情」の危うさを指摘しました。すなわち「かわいそう」という言葉は『私は幸せで、あなたは不幸よ』と言っているように相手には聞こえてしまう。本当に大事なことは安易な同情の言葉を向けることではなく、その人の悲しみに寄り添い、共感すること。それが「心に人を住まわせる」ということだと述べていらっしゃいました。

ここでの話はテレビの補完的な内容でしたが、裏ではかなり厳しい現実に子どもたちは向き合っていたのだなと思いました。ただ、この子たちが「特別」ということはないと思います。遅かれ早かれ、人間はいつかは死ぬ。そのような状況に直面した時、どう対処すればよいのかを考える。子ども時代だからこそ、考えてほしいことではないかと思います。

命の教育
命の教育を実践されている金森先生ですが、彼自身は「命」という言葉を普段はあまり使わないとのことです。先生は命の教育で大切なことは、子どもに生きていて最高と思えることを保障することだとおっしゃいました。レジュメには「きらめきの少年期を作る」と説明されています。

大人の世界では飲み会やカラオケなどのバカなことをやってストレスを発散できる場フェスティバル文化)がいくらでもあります。しかし、一方の子どもは地域の遊び場や自然、そして地域のお祭りなどのフェスティバル文化が消滅してしまい、ストレスをうまい具合に発散できなくなってしまった。

そこから金森先生は子どもにとってのフェスティバルを作り、きらめきの少年期を保障してきたと述べていらっしゃいました。ハッピークラスでは泥んこサッカーやいかだ作りが具体的な例です。大人からすれば無駄でバカげたことですが、子ども時代は基本的に「バカげたこと」で子どもストレスを逃がし、野生を身につけさせる。そういったプロセスがなければ「心を他者に開く」「豊かな人間関係をはぐくむ」ことはできないとおっしゃっていました。

また、前で紹介した本にも載っていましたが大人たちは「キャッチャーであれ」と主張。これは言葉で指示するのではなく、普段の自分たちの生きざまを子どもたちに見せることで、いわば野球の「サイン」のような形で示していく。また、キャッチャーは野球では司令塔でもありますから、敵も味方も深く読み込む。こういったことを普段から意識されていたとのことです。

ただし、勘違いしてはいけないのはしつけは逆に「ピッチャーであれ」ともおっしゃっていました。学校は、社会に出るためのいわば練習の場でありますから、子どものうちからしっかりとそのあたりはしつける。『ハッピークラス』でもおしゃべりをしていた児童をきつく叱る場面がありましたね。子どもを受け止めることも必要だが、必要な時はしっかり叱ることも大事だということなのでしょう。

いつもこの手の全国の教師のモデルとなる先生や年配のしっかりしたベテランの先生を見ていて思うのですが、こういった先生方は生徒指導が確実にうまいです。ほめるべき時はほめ、叱るべき時はしっかりと叱る。どちらか一方に偏ることなく、相反する二つの要素を時々に応じて使い分け、バランスを取る。これが自分も教員をやるうえで必要なことだなといつも思います。

フェスティバル文化ですが、高校生の場合は特別活動、すなわちクラブや文化祭であるとか体育大会だとか合唱コンクール等をうまく活用できればなと思います。特に、高校生になると科目の学習の比重が大きくなり、基準が満たされなくなれば単位認定が出ません。必然的に定期テストや受験などに高校生は追い立てられるわけですが、やはりそればかりではいけないでしょう。

余談ですが、暗黙のうちにできているフェスティバル文化があると思います。ただし、負の方向のものですが・・・。それが、『友だち地獄』等でも描かれている「いじめ」です。この手のいじめは、まるで当番制のごとく加害者と被害者が簡単に入れ替わります。しかも、厄介なことにこれは子どもの世界のみならず大人の世界にもあったりします。

金森先生も著書の中で指摘していますが、自分の中のエネルギーが負の方向に向った時、いじめが発生する。どうも今の世の中、閉そく感がありその不安を他者や自分にぶつけているようにしか見えません。これも人と人とがつながらなくなってきたからでしょうか・・・。

金森先生の講演を受けて、「輝かしい高校時代を保障する」という考え方が生まれました。このことは自分の現場での一つの理念となっています。

次の記事へ続く・・・
posted by ブラック・マジシャン at 02:26| 兵庫 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 勉強・学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月30日

「子どものために」は正しいのか

久しぶりのブログ更新ですが、この間書店に行ったときに本ブログでも扱った金森俊朗氏の本を見つけて衝動買いし、かなり強烈に印象に残ったので筆を取った次第です。

タイトルは『「子どものために」は正しいのか』というもの。ここでいう「子ども」というのは具体的には小学生くらいの子が対象ですが、中学生・高校生にも当てはまるぞと感じたことが多く非常に参考になりました。

本書の第1章では、金森先生の経験を中心に現在の子ども像、社会像、家族像が語られ、2章では1章で述べられたことを踏まえて金森先生の教員としての実践が述べられていました。第3章では子どもを持つ人向けにこれから子どもに対してできることを述べています。個人的には特に1章、2章の内容が深く印象に残っていますので、そこで印象に残ったことを書いていこうと思います。

結果だけでなく、豊かな人間関係に目を向ける
金森先生は、現代の子どもたちが「できる/できない」という結果のみに焦点を置いた成果主義の波にさらされていることを指摘しています。親の期待を一身に受け、塾や習い事に通わされる子どもたち。本の中では小学2年生にして「赤ちゃんのころに戻りたい。今は勉強や習い事などやらないといけないことがいっぱいある」と漏らした子どもの例や、全国学力調査で平均点を落とさないように成績の悪い生徒は強制的に欠席させられた例が挙げられていました。親や周りの大人たちは子どもたちをできるできないという視点でしかものを見ていない、そのことに対して子どもが疲れているということを指摘しています。

これに対して、平泳ぎで25M泳げるようになった子どもの作文を引き合いに出し、子どもたちには成長する過程で「豊かな人間関係」が必要だということを指摘しています。作文を書いた子は最初は平泳ぎができなく自信を失っていたのですが、周りの友だちが応援してくれたり具体的に教えてくれたりして、やっと平泳ぎができるようになったという喜びを書いていました。できないことばかりで子どもを責めただけでは、子どもは自信をなくしてしまう。しかし、寄り添い支えてくれる人間関係があれば、目の前の試練も乗り越えることができる、できないことができるようになっていく。このように金森先生は指摘しています。

自分の経験と照らし合わせて、人間が成長するためには本人の努力も確かに必要ですが、周りの支えがあるから努力が続く面もあるのだなと感じました。というのも、自分も小学生に勉強を教えているのですが、自分の受け持っている小学校2年生の女の子が「文字が書けるようになってうれしい」、「漫画が読めるようになってうれしい」、「勉強が楽しい」と言ってくれたことがあります。このことが金森先生の言葉と自分の経験とが重なり、そう感じた次第です。

しかし、今の時代はその「豊かな人間関係」が築きにくい状態にあると思います。大学生のころから引っかかっていた「友だちのカテゴリー化」がその要因の一つですし、院生時代には今の社会のありようも人間関係に対して信用が起きにくい状態にしていると気付きました。それらを次で見ていこうと思います。

昔と今の家族/社会の違い
まず、自分が院生時代の時に衝撃を受けたのが「一人で生きていける社会になった」という授業での指摘です。今は不況といわれていますが、便利な時代になりました。お金さえあれば、コンビニに行ってパンなりお弁当なり買えば食事にありつけるし、洗濯も洗濯機に放り込んでボタンさえ押せばそれでおしまいです。昔は他人と協力してやらないといけなかったことが今では一人でできるようになった。それがゆえに物質面に関して生きていく上では人と人とがつながる必要がなくなった社会となりました。

さらに、今は自分に対して消費することが最大の幸福とされています。つまり、おしゃれをするだとか旅行に行くなどの、個人が自分の好きなことをすることが良いという風潮にあると思います。このような世の中になったので、人と人とのつながりが(見かけ上は)薄くなり、個人が肥大化した状態にあるのが今の社会の姿だと自分は考えています。

金森先生は、社会や家族に子育ての「砦」が減っていることを指摘しています。つまり、昔は拡大家族でしたから家に祖父母もいるし、兄弟も多い。親戚も近くに住んでいることが多かった。さらに、長年顔見知りのご近所や地域の人がいた。これらがいうなれば、子どもを守るための砦となり、子ども一人をいろいろな人々が面倒みている状況にあったわけです。

しかし、いまの社会は核家族化を通り越して無縁化が進んできています。兄弟・親戚は散り散りになっているし、いない場合もある。さらに、個人主義化が進み地域の人とのつながりもない。結局、子どもを親が全面的に見なければならなくなり、負担が大きくなったと金森先生は指摘しています。

個人の幸福が美徳なわけですから、その個人を縛り、やらなければならないことの多い子育ては相反する要素です。さらに、周囲に助けを求められないわけですから親のストレスは増大、果ては子どもを放っておいて衰弱死させるなんてことになる。便利さと物質的な豊かさを求め、個人が好きに生きられる時代の暗部がここにあると思います。

「お前はうちの子じゃない」は今と昔では重みが違う
表題は金森先生の本から取ってきたのですが、「お前はうちの子じゃない」はよく親が子どもについ言ってしまう言葉です。・・・が、今の社会でこのようなセリフで子どもを責めるのは、非常に深刻な事態になることを先生は指摘しています。

昔だったら、このようなセリフを言われたりだとか、ひどい叱られ方をしても、何か夢中になれる遊び(木登り、チャンバラごっこなどなど)が外にあったし、親戚の人や地域の人々がフォローしてくれました。これも子育ての「砦」だったのですが、今はフォローしてくれる人だとか、夢中になれる遊びが外にはありません。それゆえ、子どもは親の辛辣なセリフを受けた時のストレスを逃がすことができなくなっていると述べられています。

つまり、昔だったら、親の叱り方が多少行き過ぎていた場合でも、何とか立ち直ることができた。しかし、今はそうじゃない。だから、子どもを叱るときは、両親のどちらかがフォローに回るなり、ある程度の余裕が必要であるというわけです。

この箇所を読んだとき、目からうろこが落ちました。人間が成長するためには共同性が大きく貢献しており、個人主義化が進んだからこそ子育てが難しくなった。物質面では餓死するような子どもたちは今は虐待でもない限りありませんが、精神面で非常に負担の大きい社会になってしまったんだなあと感じたのです。

共同性の喪失はほかの本でも読んだことがありますが、精神面に対しての指摘をしている人は金森先生が初めてでした。金森先生の視点は、うまく現代と過去を捉えていると思いました。

目の前の現実は変わらないが、心の現実は変えられる
いろいろと現実的な問題が目に留まり、頭を抱えるところです。しかも、社会という大きな流れで個人の力では変えることはかないません。それは子どもも同様で、つらい経験を現在進行形でしている子だっているわけです。

そういった現実の中で生きていくにも金森先生は「つながりあう」ことが大切だと言っています。目の前のつらい現実を変えるのは無理かもしれないが、そのつらい状況を分かってくれる、もしくは寄り添ってくれる存在がいるだけでも人間は安心できる。そのために、豊かな人間関係を築く必要があると述べていました。

実は個人的なことでも悩んだ時期があるのですが、一人の友だちの言葉で救われた経験が自分もあります。目の前の現実は変えられなくても、だからと言って逃げることはできない。その困難を乗り越えるには自分が強くなる必要もありますが、周りの支えというのも必要であるということでしょうか。心の持ちようで現実の受け止め方が変わる。そうすることで困難な状況にも立ち向かえるものだと思います。

みんながみんな金森先生になれる?
本書の印象は非常に良かったです。読んでいて新しい知見も得られましたし、自分の経験と結びついたことが多かったです。

ただし、すべての先生が金森先生になれるかというと、そうではないなと感じました。まず、教員というのはあくまで「個人であるだれか」がやっているわけでして、すべての教師が子どもを的確に受け止めてつながりを作れるかというとそうではない。

その難しい実践を行っているからこそ金森先生は評価されているんだと思いますが、別の本を読んでいくとある一人の教師像を全体に一般化することは危険だぞとも感じている次第です。このあたりの話は、菅野仁著『教育幻想―クールティーチャー宣言―』や諏訪哲司著の『学校のモンスター』を読めばわかるのですが、この話を書くと新しい記事が必要になるのでやめておきます。機会があれば書こうと思います。

今の自分がやらないといけないことは、いろいろな先生の実践や自分の知識をいかにうまくくみ上げ自分のスタイルを作ることだと考えています。金森先生になることはできないし、なる必要もないと思いますが、それでも自分も受け持っている生徒たちが今日も学校に来てよかった(ハッピーだった)と思ってもらえるよう努力していきたいと思います。

「子どものために」は正しいのか (学研新書) [新書] / 金森 俊朗 (著); 学習研究社 (刊)
posted by ブラック・マジシャン at 23:59| 兵庫 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 勉強・学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月19日

教育委員会のホンネ

院生時代から新書を読むようになったのですが、ちょっと書店で立ち読みした本で面白い内容があったのでブログで紹介します。

『先生のホンネ』という本なのですが、立ち読みしながらパラパラページをめくると最後のあたりにここ数年の高校教員の年齢比率を表したグラフがありました。驚いたことに、3年前の2007年の全国高校教員(私立含む)の中で25歳未満の教員の割合が0.8%だったのです。

25歳以上を超えるとぐんと伸びて約5%になるのですが、25歳未満の教員の数があまりにも少なすぎます。この手のグラフは20代というくくりで出ていることが多いので、20代だけでみた数値の5.8%だけを見たら騙されているところでした。ちなみに、2004年は約1%だったのでさらに減少しているということです。

実際は25歳未満の常勤・非常勤の先生も多くいらっしゃるので、この数値は常勤・非常勤を抜いた上での計算だと思うのですが、それでも低すぎます。さらに、私立は1年間常勤講師をすれば自動的に教諭に上げてくれる学校もあるので、公立学校となるとさらに低くなるのでしょうはないでしょうか?

おそらく、意図的に25歳未満からは採っていないのでしょうね。新卒というと、いちばん早くて22〜23歳ですから、高校の生徒とは10歳も年齢が離れていません。これが小学校中学校なら、10歳〜8歳以上離れているので問題がありませんが、高校だと年齢が近すぎるので生徒と一緒になって色恋沙汰などの問題が起きかねません。その様な危険因子を持っているものを正式採用するのは都道府県側としてはリスクが高い・・・というのが本音なのでしょう。

自分の周りでも、院生卒業で高校教員に正式採用されている人は学部に入る前に浪人をして院を出るころには25才を超えている人でしっかりしている人(大人っぽくって能力がある人)でした。

今まではその場の面接で試験官から良い評価を引き出せば良いと思っていたので、この数値を見たときに愕然としました。この事実を知っていれば、もう少し気持ちの持ちようが変わっていたんですが・・・。世の中というのは純粋な能力合戦や公平な試験だけで回っているのではないということがよくわかりました。やはり、本は日ごろから読んでおくべきですね。

ちなみに自分は早生まれなので、来年25歳になります。来年の採用試験以降が焦点となりそうです。一次試験は突破しているし、二次試験も攻略法がだんだん見えてきているので頑張ります。


先生のホンネ 評価、生活・受験指導 (光文社新書 486)

先生のホンネ 評価、生活・受験指導 (光文社新書 486)

  • 作者: 岩本 茂樹
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2010/10/15
  • メディア: 新書


posted by ブラック・マジシャン at 00:20| 兵庫 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 勉強・学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月29日

これまでの自分が見えていなかったこと

今回、採用試験はうまくいかなかったのですが、同時に今年は今までの自分が見えていなかったことが見えるようになりました。はっきり言って、それに気付いた時今まで試験に通らなかったわけだと納得と得心を得ました。そのことについてまとめがてら書いてみようと思います。

面接者は受験者に偏りがないか見ている
面接官の見ているポイントはいろいろあるのですが、個人の能力はもちろん「この人は組織で動ける人間なのかどうか」も見ています。実は、この集団で動くという観点が、下手をすると個人の能力よりも大きく面接の場では見られているのです。学校は組織で動く場所であり、管理職の指示に従い、ある事項をみんなで話し合い、そこで決めたことをみんなで守らなければならない「協議の場」でもあります。

協議をしてみんなで決めたことに基づいて全員でそろって動く場ですから、自己主張する際には「こういう考えもできますよ」という感じで意見を提示できる人なのかどうかを見ているということ。だから、面接を協議ではなく議論や戦いの場にしてはいけないということです。「私が、私が・・・」と言うように自己主張が強すぎたり、結果だけしか論じない発言しかしなかったりすると、この人は組織で動けない偏りがある人間であると判断され、面接ではじかれるということです。

これまでの自分は・・・
この点を今まで自分は勘違いしていたように思います。去年までの自分はとにかく「試験という名の競争に勝つ」ことだけしか頭にありませんでした。だから、必然的に個人の能力を伸ばすことしか考えず、そのことばかりをアピールしていました。

また、学問の世界にのめりこみすぎていたせいか、話し合い(議論)の場はこちらの正当性をいかに確保し、押し通すかを考える場としか考えていませんでした。

そのほかにも振り返ってみると、自分がやってきたのはすべて1対1の競技ばかりでした。中学・高校時代にやっていたスポーツは卓球でしたし、カードゲームも対戦相手と自分の戦いの場です。というわけで、自分には組織で動いた経験がほとんどなく、ソロ活動ばかりしていました。

それがためか、物事をカードゲームやスポーツのような1対1の「競技」または戦い型の「議論」という「偏った」観点ばかりでしか見ていませんでした。白黒はっきりした勝利条件があり、周りに関係なくそれを満たす。そのことしか頭にないものの見事に「偏った」人間だったと思います。

しかし、学校で求められているのは競技に勝てる人間でも効率よく正当性を主張できる人間でもなく、さまざまな人がいる組織の中でうまく立ち回れる人間であるかということです。組織内で求められることは周りの人間と協調し、組織の歯車になること。ですから、今までの自分のように組織内に1対1のスポーツのような争いの火種のようなものを持ち込むようだと蹴られるというわけです。

おそらく、通常の企業も同じことを考えていると思います。学生時代の間は同年代の限られた人間関係しか求められず、学問の世界も最終的には自分だけの世界になります。ですから学生の間では「組織で動く」という視点を持つことは難しく、それを持てなかった結果として「就職難」という憂き目にあってしまうのだと思います。

競技から協議へ
この点からみると、今までの自分は偏りだらけだったと思います。去年は、圧迫面接を恐れるあまり徹底的に問答を想定し、常に「付け入る隙は見せないぞ!」という心構えで受験していました。それが、最後の面接官に伝わってしまったのか3番目の面接官が結構きつい圧迫面接を行ってきました。(模擬授業でやったことを全否定する、こちらの発言に対してすべてNOと答えるなどなど)

結果として、最後の面接官とは反論し合いまくりの押し問答の状態になってしまいました。完全に委縮してしまうのもまずいのですが、これはこれで、こちらの発言がいかに正しいものだったとしても面接官の印象が悪いのは明白です。この点が去年の敗因だと思います。

このことを8月の二次試験直前に気付き、意識して試験に臨んだのですがやはり一朝一夕では身に付くものではありませんでした。目立った圧迫もなくうまく立ち回れた気でいましたが、結果はダメだったので、今後はこれらの点を意識してさらに磨きをかけるように行動しようと思います。

「学校は組織で動く協議の場」
今までの自分はなんだかんだと言って、戦うことしか考えていませんでした。しかし、学校にはいろいろな人がいるわけで、教育に対する考え方もそれに対する温度もそれぞれです。自分と少し違っているからといって、議論を吹っ掛けたりするとたちまち組織は崩れ去ります。今までの自分は、組織内では対立の火種になるものを抱えて学校という場に加わろうとしていたわけですから、落とされて当然でした。

私の好きなアニメの中で最近になって「フォア・ザ・チーム」という言葉が出てきましたが、その精神が今までの自分には欠けていたと思います。今後は個人の資質・能力はもちろんのこと、組織という場で動くということを念頭に入れて個人と全体という二つの側面から自分の力を磨き、組織で動く教師というものを具体化していこうと思います。

10月1日追記
成績開示を見に行ったら、順位が44位でした。補欠も含めた合格者の数が43名でしたので、あと一歩届かなかったということになります。

気付いた路線は合っているようですが、気づいただけではだめで磨きをかけなさいというお告げという風に思っておくことにします・・・。
posted by ブラック・マジシャン at 02:10| 兵庫 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月28日

近況報告

またしても1か月ほど空けてしまいましたが、採用試験の結果が出てしまいました。3回目の今年度も二次試験で落とされてしまいました。英語のディスカッションの卓で自分だけ落っこちてしまったのでショックでしたね。毎年自分の隣の人間が通ってしまいますので、難しいもんです。

ここ3年受け続けてきて気付きだしたのですが、「選考試験」というのは面接がうまく行ったから通るという単純なものではないということです。赴任先の先生に言われたのですが、その年その年で、採用側のインテンションや見ているポイントがあり、それにそぐわなければ落とされてしまうというわけです。教員採用試験は「競争試験」と言われますが、簡単にスパッと条件で切っているわけではないようです。

「対策を立てれば通るものではない」とその先生に言われていたのですが、そのことを良く実感しました。とにかく採用側が見ているものが多く、一つ一つを確実にクリアし、どの面接官が見ても納得するような形にまでもっていき、後は天命を待つしかないようです。

今年度は二次試験の対策を母校の勉強会で立てて、気づくことも多かったので来年さらに磨きをかけて頑張ろうと思います。
posted by ブラック・マジシャン at 23:31| 兵庫 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月11日

生きています・・・

3月末以降めっきり更新していませんでしたが、一応生きています。仕事等々が決まりにくく、パソコンから離れていました。

只今地元で塾をやりながら、私立の高校で非常勤講師をしています。結構いろいろな勉強になっています。

採用試験は、免除のシステムが変わったせいで、免除がなくなって振り出しに戻されてお先真っ暗な状態だったのですが、晴れて一次試験を突破しました。

二次試験に向けて勉強中です・・・。頑張ります。
posted by ブラック・マジシャン at 00:01| 兵庫 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月26日

「おられる」は間違った尊敬語の形式か?4+書いた後の感想

4. 結論
本レポートは、「『いる』の尊敬語は『いらっしゃる』」であるという主張を「おられる」と比較して、批判的に考察した。その結果、実際のデータを見ると「おられる」も広く使われていそうであり、かつ昔からの用法を挙げて「おられる」を完全に正当化する立場も存在することがわかった。

ただし、「おられる」を尊敬語、謙譲語@、謙譲語Aなどといった機能面や自動詞および他動詞などの文法的な特性から考えると、合理的でない部分も孕んでいるグレーな存在であることもわかった。そして、「おる」の意味を実際に即してもう少し考えるべきであるということもわかった。

このように、昔からあることにはあるのだけれども、機能面と文法的に考えればグレーゾーンの部分がある「おられる」を聞けば不快感を示す人間もいるはずである。よって、「おられる」よりも安定して受け入れられている「いらっしゃる」を使ったほうが無難ではないかと思うので、「おられる」をある程度認める形の論考を行ったが、少なくとも私は「いらっしゃる」を授業などの公の場では優先して使用するように心がけたい。

私は英語教員志望であるが、言葉を子どもに対して教える立場の人間であることには変わりはない。言葉は、英語や日本語という枠組みを超えて、人間関係を作るための橋渡しをする大事な道具である。だからこそ、「昔ながらの不条理な頑固親父理論」を振りかざしてまで保守に走ろうとする規範文法のような立場もあるし、おかしいところは変えてゆき、変化を受け入れようとする認知言語学のような立場もあるのである。

昔の人々が「言葉は言霊」と言ったように、その人と人とをつなぐありがたい道具を大事に使用し見つめる必要がある。そのために、今ある言葉や昔からある言葉を実際に即しながら繊細に捉えて、少なくとも「昔からあるから」とか「今流行っているから」と言って、何でもかんでも無批判に受け入れることはしないでおきたい。

参考文献
宮内庁(2005) 『皇后陛下お誕生日に際し(平成17年) 宮内記者会の質問に対する文書ご回答』 http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h17sk.html Accessed on August 3rd in 2008
諏訪哲二(2007) 『学校のモンスター』 中公新書ラクレ
萩野貞樹(2005) 『みなさん、これが敬語ですよ。図でよくわかる敬語のしくみ』 PHP文庫
言語生活論の講義資料

書いてみた感想
このレポートは夏休み直前、修士論文中間発表前に書いたものです。修士論文の発表を控えていたのですが、ちょっと調べてみたら結構おもしろかったので頑張って書きました。

修士論文を書くにあたって基本的な要領をつかめてきた時期なのでいろいろなことに気を遣って書いています。修士論文と比べてしまうと短いレポートですが、以下のことは守るようにしました。

1、尊敬語、謙譲語@、謙譲語Aなどの概念規定や言葉の定義をはっきりさせる。
2、一度はっきりさせた言葉の定義は恣意的に曲げたりせず、本文中での一貫性を確実に持たせる
3、過去の文献に目を通し、どのような議論が行われているかを正確に捉え、何が欠点なのか指摘する
4、実際のデータを身近なものや自分が読んだ書籍から取ってくる
5、先にあげた概念規定を実際のデータや過去の文献から照らし合わせながら、独自の論を組みあげていく

こういったことを守っていけば、基本的な論文フォーマットは固まります。特に言葉の定義や概念規定がぶれてしまうと、論がめちゃくちゃになってしまいますので気を付けました。

慣れるまでは時間がかかるし、何回すり合わせても穴が出てきてしまいますが、安定した議論を行うには上記のことはどうしても必要なことだということがわかりましたね。この知見は修士論文に大いに生かされました。
posted by ブラック・マジシャン at 03:17| 兵庫 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 勉強・学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月25日

「おられる」は間違った尊敬語の形式か?3

3. 萩野(2005)を批判する
ただし、萩野(2005)に「ゴキブリ理論」と一方的にこき下ろされて痛烈に批判されてばかりでは、認知言語学を学んだ者としてのプライドが許さないため、ある程度の反論を試みたい。萩野(2005)の「おられる」理論は、自動詞と他動詞の概念を見落としており、かつ「今」の言語データがなく、更に「言葉はかくあるべき」論に陥ってしまっており、実際に即してはいない。

3.1 二重敬語は非文法的
萩野(2005)は「おられる」の項目において謙譲語に対し尊敬語は付かないことはないと指摘している。これも「おられる」を認める観点の一つである。これは授業においても指摘されたことである。

現代の日本語では、尊敬語に尊敬語をつけた形、すなわち「二重敬語」は容認されていない。

(19) *先生が、そのようにおっしゃられていました

(19)は、「言う」の尊敬語である「おっしゃる」の未然形に尊敬の助動詞である「・・・れる」がくっついた形になっている。これは、尊敬語に尊敬語を重ねた形の二重敬語で、古典では天皇の動作に対して使われていたが、現代の日本語の文法では容認されていない。この二重敬語のように同じ種類の敬語が二つ使われた形は非文法的である。

ただし、授業では種類の違った敬語同士ならばくっつけることが出来ると認められていることが指摘された。その概念を説明するために、謙譲語@の概念が必要となる。

3.2 謙譲語@と尊敬語
謙譲語@の機能は「目的語(動作の対象)を高めること」である。その形式は、構文型ならば「お/ご〜する」もしくは「お/ご〜申し上げる」であり、尊敬語と同様に対応する専用の語があるならばそれを優先的に使うようになっている。

(20) 課長が部長にお会い申し上げました。
(21) 課長が部長にお菓子を差し上げました。

(20)、(21)はそれぞれ謙譲語@の使用例である。謙譲語@は動作の対象、すなわち目的語を高める機能を持つ。ここでは、目的語である部長を立てるために「会う」を「お会い申し上げる」、「やる」を専用の語形である「差し上げる」に語形を変えている。謙譲語Aは主語を下げる役目を持っていたが、この謙譲語@は、主語を上げも下げもせず、目的語を上げる役割を果たしている。

もしも、この文の話者が課長よりもランクが下であり課長に敬意を表したいのであれば、次のようにすれば課長を立てることが出来る。

(22) 課長が部長にお会い申し上げられました

(22)では、「お会いになる」の部分で目的語である部長を上げており、「・・・れる」の部分で主語である課長を上げている。この場合、「お会いになる」は謙譲語@であり、「・・・れる」は尊敬の助動詞である。これらは種類の違う敬語であるので引っ付けることが可能である。

3.3 謙譲語@および謙譲語Aの概念と自動詞および他動詞の関係
それでは「おられる」の場合はどうだろうか?確かに、萩野(2005)や授業で見たようにおられるも種類の違うもの同士がくっついた敬語の形なので容認されそうである。しかし、「おる」を謙譲語Aとして捉えた場合、尊敬語と謙譲語@および謙譲語Aの概念を考慮に入れると「おられる」は怪しい使用法となる。萩野(2005)が提示した(16)の文で考えてみよう。

(16) 先生は昔し、烏を飼つて居(を)られた。(夏目漱石著 『ケーベル先生』より)

(16)の主語は、先生である。これに対し「飼っておられる」と、「おられる」を使って先生を上げようとしている。しかし、「おる」を謙譲語Aとして捉えると大変なこととなる。そもそも「おる」は自動詞であり、対象を取ることができない。そういうわけで、必然的に「おる」は主語しか取らず、目的語を高める謙譲語@扱いは出来ない。ここでの主語は「先生」であるので、謙譲語A「おる」で「先生」をいったん下げている。また「おる」についている「・・・られる」は尊敬の助動詞であり、「おる」でいったん下げておいた先生をまた引き上げてしまっている。これでは、先にも述べたように動作主を下げて再び上げているのでプラスマイナスゼロの状態になり、理にかなわない形になっている。

「いる」はそもそも自動詞であり、目的語を取らない。目的語を上げるという前提を満たすには当然動作の対象(目的語)を取る他動詞でなければならないため、動作の対象を取らない自動詞は謙譲語@になりえないはずである。この点から見ると、主語を下げる謙譲語Aと主語を上げる尊敬語は同時にくっつき得ないはずである。

萩野(2005)の「おられる」理論は、自動詞と他動詞の関係を踏まえずに十把一絡に尊敬語と謙譲語はくっつくことができると言っていたが、謙譲語@と尊敬語の観念そして自動詞と他動詞の基本的な特性を考慮に入れると、その理論は短絡的であることがわかる。

3.4 今の「おる」の意味のありよう
上の私の論考は、あくまでも「おる」を謙譲語Aとして捉えた場合の論考である。先にも述べたように萩野(2005)は、「おる」をあくまでも「いる」のバリエーションと捉え、「謙譲語的に使われる場合があるだけで、いつもそうではない」と主張している。この論が通ると、これまでの議論が意味を成さなくなってしまうので、この「おる」の基本的意味も、もう少しつめて考えたい。

そもそも、萩野(2005)の主張する理論は、あくまでも辞書がベースとなっているものである。それは『岩波古語辞典』への言及を見ても明らかである。また、使用されている例文も時代が古いもののみが言及されており、最近の本の例文が使用されていない。すなわち、比較対象として最近の言語データも提示して「今の『おる』の意味のありよう」が考察されていないのである。これでは昔の「おる」の使い方はわかるが、今の「おる」の実態を考えられていないので、この論拠は不十分である。

3.5 規範文法vs認知言語学
そして、萩野(2005)は辞書を規範として言葉の意味を捉えるべきと主張している。そうでなければ、世代間で言葉の「意味」の捉え方が変わってしまい、コミュニケーションが成立しえなくなるからだと、規範を押し付けた形で認知言語学への批判を展開している。

しかし、この規範文法の理念、「・・・べき」論はその「・・・べき」を立証するための根拠が全くない。むしろ「昔からこうだったのだから、それに無批判に従うべきである」もしくは「日本語とはこういうものなのだから、我々もそれを無批判に受け入れろ」という、年長者の権威主義に乗っかった保守的な単なる「押し付け」である。もちろん、規範というものは必要であることは認めるべきであるが、その「・・・べき」を押し通すにも一定の根拠が必要である。

そして、「変化が起る」ということにも、そこにある一定の理由があるわけで、それが理にかなっていれば許容されるべきである。その理にかなった理由や根拠があるにもかかわらず「昔からの方法でこうあるべきだ」と押し付けるのはナンセンスである。その理由および根拠や事例を蓄積させて一般化させてこそ規則に意味があり、その意味を考えるのが「認知言語学」、ひいては生成文法なども含めた言語学全般の役目の一つである。無批判に変化を受け入れろと主張しているわけではない。規範文法は、事実を一般化させることなく、昔からあるルールを無批判に受け入れ、今の変化を徹底的に否定し、「・・・べき論」を展開している。これではあまりに保守的であり、そこには理にかなわない昔ながらのルールを野放しにしてしまう危険性がある。

萩野(2005)は、認知言語学を家にいる、ゴキブリを自然の変化だと主張し正当化して野放しにしておく「ゴキブリ理論」であると隠喩を使って揶揄したが、こうやって考えていくと規範文法は、そこにあると邪魔な場所にずっと物が置かれているのに、昔からそこにあるからと言って絶対にそれを動かそうとしない「昔ながらの不条理な頑固親父理論」である。

3.6 今後の研究への示唆
少々、議論が横にそれて抽象論と揶揄が過ぎてしまったが、この「おる」の意味はもう少し煮詰めて考える必要がある。今ではコーパスの技術も発達しているので、様々な年代や文脈、更に最近の言語データを集め、「おる」の意味を事実に基づいて一般化し、考え直す必要がある。レポートの範囲を超えるので、そこまではやらないが、これは調査し白黒はっきりさせる価値があると思われる。

「『いる』の尊敬表現は『いらっしゃる』のみである」と言い切った主張は、実際の側面のみを見れば誤りに見えるが、「おられる」という言葉自体のほうも謙譲語と尊敬語の概念を考慮に入れると存在しにくいものである。こう考えると、少なくとも「いらっしゃる」のほうが「おられる」よりも安定した尊敬語の語形だとわかる。
posted by ブラック・マジシャン at 03:15| 兵庫 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 勉強・学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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