2010年03月25日

「おられる」は間違った尊敬語の形式か?3

3. 萩野(2005)を批判する
ただし、萩野(2005)に「ゴキブリ理論」と一方的にこき下ろされて痛烈に批判されてばかりでは、認知言語学を学んだ者としてのプライドが許さないため、ある程度の反論を試みたい。萩野(2005)の「おられる」理論は、自動詞と他動詞の概念を見落としており、かつ「今」の言語データがなく、更に「言葉はかくあるべき」論に陥ってしまっており、実際に即してはいない。

3.1 二重敬語は非文法的
萩野(2005)は「おられる」の項目において謙譲語に対し尊敬語は付かないことはないと指摘している。これも「おられる」を認める観点の一つである。これは授業においても指摘されたことである。

現代の日本語では、尊敬語に尊敬語をつけた形、すなわち「二重敬語」は容認されていない。

(19) *先生が、そのようにおっしゃられていました

(19)は、「言う」の尊敬語である「おっしゃる」の未然形に尊敬の助動詞である「・・・れる」がくっついた形になっている。これは、尊敬語に尊敬語を重ねた形の二重敬語で、古典では天皇の動作に対して使われていたが、現代の日本語の文法では容認されていない。この二重敬語のように同じ種類の敬語が二つ使われた形は非文法的である。

ただし、授業では種類の違った敬語同士ならばくっつけることが出来ると認められていることが指摘された。その概念を説明するために、謙譲語@の概念が必要となる。

3.2 謙譲語@と尊敬語
謙譲語@の機能は「目的語(動作の対象)を高めること」である。その形式は、構文型ならば「お/ご〜する」もしくは「お/ご〜申し上げる」であり、尊敬語と同様に対応する専用の語があるならばそれを優先的に使うようになっている。

(20) 課長が部長にお会い申し上げました。
(21) 課長が部長にお菓子を差し上げました。

(20)、(21)はそれぞれ謙譲語@の使用例である。謙譲語@は動作の対象、すなわち目的語を高める機能を持つ。ここでは、目的語である部長を立てるために「会う」を「お会い申し上げる」、「やる」を専用の語形である「差し上げる」に語形を変えている。謙譲語Aは主語を下げる役目を持っていたが、この謙譲語@は、主語を上げも下げもせず、目的語を上げる役割を果たしている。

もしも、この文の話者が課長よりもランクが下であり課長に敬意を表したいのであれば、次のようにすれば課長を立てることが出来る。

(22) 課長が部長にお会い申し上げられました

(22)では、「お会いになる」の部分で目的語である部長を上げており、「・・・れる」の部分で主語である課長を上げている。この場合、「お会いになる」は謙譲語@であり、「・・・れる」は尊敬の助動詞である。これらは種類の違う敬語であるので引っ付けることが可能である。

3.3 謙譲語@および謙譲語Aの概念と自動詞および他動詞の関係
それでは「おられる」の場合はどうだろうか?確かに、萩野(2005)や授業で見たようにおられるも種類の違うもの同士がくっついた敬語の形なので容認されそうである。しかし、「おる」を謙譲語Aとして捉えた場合、尊敬語と謙譲語@および謙譲語Aの概念を考慮に入れると「おられる」は怪しい使用法となる。萩野(2005)が提示した(16)の文で考えてみよう。

(16) 先生は昔し、烏を飼つて居(を)られた。(夏目漱石著 『ケーベル先生』より)

(16)の主語は、先生である。これに対し「飼っておられる」と、「おられる」を使って先生を上げようとしている。しかし、「おる」を謙譲語Aとして捉えると大変なこととなる。そもそも「おる」は自動詞であり、対象を取ることができない。そういうわけで、必然的に「おる」は主語しか取らず、目的語を高める謙譲語@扱いは出来ない。ここでの主語は「先生」であるので、謙譲語A「おる」で「先生」をいったん下げている。また「おる」についている「・・・られる」は尊敬の助動詞であり、「おる」でいったん下げておいた先生をまた引き上げてしまっている。これでは、先にも述べたように動作主を下げて再び上げているのでプラスマイナスゼロの状態になり、理にかなわない形になっている。

「いる」はそもそも自動詞であり、目的語を取らない。目的語を上げるという前提を満たすには当然動作の対象(目的語)を取る他動詞でなければならないため、動作の対象を取らない自動詞は謙譲語@になりえないはずである。この点から見ると、主語を下げる謙譲語Aと主語を上げる尊敬語は同時にくっつき得ないはずである。

萩野(2005)の「おられる」理論は、自動詞と他動詞の関係を踏まえずに十把一絡に尊敬語と謙譲語はくっつくことができると言っていたが、謙譲語@と尊敬語の観念そして自動詞と他動詞の基本的な特性を考慮に入れると、その理論は短絡的であることがわかる。

3.4 今の「おる」の意味のありよう
上の私の論考は、あくまでも「おる」を謙譲語Aとして捉えた場合の論考である。先にも述べたように萩野(2005)は、「おる」をあくまでも「いる」のバリエーションと捉え、「謙譲語的に使われる場合があるだけで、いつもそうではない」と主張している。この論が通ると、これまでの議論が意味を成さなくなってしまうので、この「おる」の基本的意味も、もう少しつめて考えたい。

そもそも、萩野(2005)の主張する理論は、あくまでも辞書がベースとなっているものである。それは『岩波古語辞典』への言及を見ても明らかである。また、使用されている例文も時代が古いもののみが言及されており、最近の本の例文が使用されていない。すなわち、比較対象として最近の言語データも提示して「今の『おる』の意味のありよう」が考察されていないのである。これでは昔の「おる」の使い方はわかるが、今の「おる」の実態を考えられていないので、この論拠は不十分である。

3.5 規範文法vs認知言語学
そして、萩野(2005)は辞書を規範として言葉の意味を捉えるべきと主張している。そうでなければ、世代間で言葉の「意味」の捉え方が変わってしまい、コミュニケーションが成立しえなくなるからだと、規範を押し付けた形で認知言語学への批判を展開している。

しかし、この規範文法の理念、「・・・べき」論はその「・・・べき」を立証するための根拠が全くない。むしろ「昔からこうだったのだから、それに無批判に従うべきである」もしくは「日本語とはこういうものなのだから、我々もそれを無批判に受け入れろ」という、年長者の権威主義に乗っかった保守的な単なる「押し付け」である。もちろん、規範というものは必要であることは認めるべきであるが、その「・・・べき」を押し通すにも一定の根拠が必要である。

そして、「変化が起る」ということにも、そこにある一定の理由があるわけで、それが理にかなっていれば許容されるべきである。その理にかなった理由や根拠があるにもかかわらず「昔からの方法でこうあるべきだ」と押し付けるのはナンセンスである。その理由および根拠や事例を蓄積させて一般化させてこそ規則に意味があり、その意味を考えるのが「認知言語学」、ひいては生成文法なども含めた言語学全般の役目の一つである。無批判に変化を受け入れろと主張しているわけではない。規範文法は、事実を一般化させることなく、昔からあるルールを無批判に受け入れ、今の変化を徹底的に否定し、「・・・べき論」を展開している。これではあまりに保守的であり、そこには理にかなわない昔ながらのルールを野放しにしてしまう危険性がある。

萩野(2005)は、認知言語学を家にいる、ゴキブリを自然の変化だと主張し正当化して野放しにしておく「ゴキブリ理論」であると隠喩を使って揶揄したが、こうやって考えていくと規範文法は、そこにあると邪魔な場所にずっと物が置かれているのに、昔からそこにあるからと言って絶対にそれを動かそうとしない「昔ながらの不条理な頑固親父理論」である。

3.6 今後の研究への示唆
少々、議論が横にそれて抽象論と揶揄が過ぎてしまったが、この「おる」の意味はもう少し煮詰めて考える必要がある。今ではコーパスの技術も発達しているので、様々な年代や文脈、更に最近の言語データを集め、「おる」の意味を事実に基づいて一般化し、考え直す必要がある。レポートの範囲を超えるので、そこまではやらないが、これは調査し白黒はっきりさせる価値があると思われる。

「『いる』の尊敬表現は『いらっしゃる』のみである」と言い切った主張は、実際の側面のみを見れば誤りに見えるが、「おられる」という言葉自体のほうも謙譲語と尊敬語の概念を考慮に入れると存在しにくいものである。こう考えると、少なくとも「いらっしゃる」のほうが「おられる」よりも安定した尊敬語の語形だとわかる。
posted by ブラック・マジシャン at 03:15| 兵庫 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 勉強・学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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