久しぶりのブログ更新ですが、この間書店に行ったときに本ブログでも扱った金森俊朗氏の本を見つけて衝動買いし、かなり強烈に印象に残ったので筆を取った次第です。
タイトルは『「子どものために」は正しいのか』というもの。ここでいう「子ども」というのは具体的には小学生くらいの子が対象ですが、中学生・高校生にも当てはまるぞと感じたことが多く非常に参考になりました。
本書の第1章では、金森先生の経験を中心に現在の子ども像、社会像、家族像が語られ、2章では1章で述べられたことを踏まえて金森先生の教員としての実践が述べられていました。第3章では子どもを持つ人向けにこれから子どもに対してできることを述べています。個人的には特に1章、2章の内容が深く印象に残っていますので、そこで印象に残ったことを書いていこうと思います。
結果だけでなく、豊かな人間関係に目を向ける金森先生は、現代の子どもたちが「できる/できない」という結果のみに焦点を置いた成果主義の波にさらされていることを指摘しています。親の期待を一身に受け、塾や習い事に通わされる子どもたち。本の中では小学2年生にして「赤ちゃんのころに戻りたい。今は勉強や習い事などやらないといけないことがいっぱいある」と漏らした子どもの例や、全国学力調査で平均点を落とさないように成績の悪い生徒は強制的に欠席させられた例が挙げられていました。親や周りの大人たちは子どもたちをできるできないという視点でしかものを見ていない、そのことに対して子どもが疲れているということを指摘しています。
これに対して、平泳ぎで25M泳げるようになった子どもの作文を引き合いに出し、子どもたちには成長する過程で「豊かな人間関係」が必要だということを指摘しています。作文を書いた子は最初は平泳ぎができなく自信を失っていたのですが、周りの友だちが応援してくれたり具体的に教えてくれたりして、やっと平泳ぎができるようになったという喜びを書いていました。できないことばかりで子どもを責めただけでは、子どもは自信をなくしてしまう。しかし、寄り添い支えてくれる人間関係があれば、目の前の試練も乗り越えることができる、できないことができるようになっていく。このように金森先生は指摘しています。
自分の経験と照らし合わせて、人間が成長するためには本人の努力も確かに必要ですが、周りの支えがあるから努力が続く面もあるのだなと感じました。というのも、自分も小学生に勉強を教えているのですが、自分の受け持っている小学校2年生の女の子が「文字が書けるようになってうれしい」、「漫画が読めるようになってうれしい」、「勉強が楽しい」と言ってくれたことがあります。このことが金森先生の言葉と自分の経験とが重なり、そう感じた次第です。
しかし、今の時代はその「豊かな人間関係」が築きにくい状態にあると思います。大学生のころから引っかかっていた「友だちのカテゴリー化」がその要因の一つですし、院生時代には今の社会のありようも人間関係に対して信用が起きにくい状態にしていると気付きました。それらを次で見ていこうと思います。
昔と今の家族/社会の違いまず、自分が院生時代の時に衝撃を受けたのが「一人で生きていける社会になった」という授業での指摘です。今は不況といわれていますが、便利な時代になりました。お金さえあれば、コンビニに行ってパンなりお弁当なり買えば食事にありつけるし、洗濯も洗濯機に放り込んでボタンさえ押せばそれでおしまいです。昔は他人と協力してやらないといけなかったことが今では一人でできるようになった。それがゆえに
物質面に関して生きていく上では人と人とがつながる必要がなくなった社会となりました。さらに、今は自分に対して消費することが最大の幸福とされています。つまり、おしゃれをするだとか旅行に行くなどの、個人が自分の好きなことをすることが良いという風潮にあると思います。このような世の中になったので、人と人とのつながりが(見かけ上は)薄くなり、個人が肥大化した状態にあるのが今の社会の姿だと自分は考えています。
金森先生は、社会や家族に子育ての「砦」が減っていることを指摘しています。つまり、昔は拡大家族でしたから家に祖父母もいるし、兄弟も多い。親戚も近くに住んでいることが多かった。さらに、長年顔見知りのご近所や地域の人がいた。これらがいうなれば、子どもを守るための砦となり、子ども一人をいろいろな人々が面倒みている状況にあったわけです。
しかし、いまの社会は核家族化を通り越して無縁化が進んできています。兄弟・親戚は散り散りになっているし、いない場合もある。さらに、個人主義化が進み地域の人とのつながりもない。結局、子どもを親が全面的に見なければならなくなり、負担が大きくなったと金森先生は指摘しています。
個人の幸福が美徳なわけですから、その個人を縛り、やらなければならないことの多い子育ては相反する要素です。さらに、周囲に助けを求められないわけですから親のストレスは増大、果ては子どもを放っておいて衰弱死させるなんてことになる。便利さと物質的な豊かさを求め、個人が好きに生きられる時代の暗部がここにあると思います。
「お前はうちの子じゃない」は今と昔では重みが違う表題は金森先生の本から取ってきたのですが、「お前はうちの子じゃない」はよく親が子どもについ言ってしまう言葉です。・・・が、今の社会でこのようなセリフで子どもを責めるのは、非常に深刻な事態になることを先生は指摘しています。
昔だったら、このようなセリフを言われたりだとか、ひどい叱られ方をしても、何か夢中になれる遊び(木登り、チャンバラごっこなどなど)が外にあったし、親戚の人や地域の人々がフォローしてくれました。これも子育ての「砦」だったのですが、今はフォローしてくれる人だとか、夢中になれる遊びが外にはありません。それゆえ、
子どもは親の辛辣なセリフを受けた時のストレスを逃がすことができなくなっていると述べられています。
つまり、昔だったら、親の叱り方が多少行き過ぎていた場合でも、何とか立ち直ることができた。しかし、今はそうじゃない。だから、子どもを叱るときは、両親のどちらかがフォローに回るなり、ある程度の余裕が必要であるというわけです。
この箇所を読んだとき、目からうろこが落ちました。人間が成長するためには共同性が大きく貢献しており、個人主義化が進んだからこそ子育てが難しくなった。物質面では餓死するような子どもたちは今は虐待でもない限りありませんが、精神面で非常に負担の大きい社会になってしまったんだなあと感じたのです。
共同性の喪失はほかの本でも読んだことがありますが、精神面に対しての指摘をしている人は金森先生が初めてでした。金森先生の視点は、うまく現代と過去を捉えていると思いました。
目の前の現実は変わらないが、心の現実は変えられるいろいろと現実的な問題が目に留まり、頭を抱えるところです。しかも、社会という大きな流れで個人の力では変えることはかないません。それは子どもも同様で、つらい経験を現在進行形でしている子だっているわけです。
そういった現実の中で生きていくにも金森先生は「つながりあう」ことが大切だと言っています。目の前のつらい現実を変えるのは無理かもしれないが、そのつらい状況を分かってくれる、もしくは寄り添ってくれる存在がいるだけでも人間は安心できる。そのために、豊かな人間関係を築く必要があると述べていました。
実は個人的なことでも悩んだ時期があるのですが、一人の友だちの言葉で救われた経験が自分もあります。目の前の現実は変えられなくても、だからと言って逃げることはできない。その困難を乗り越えるには自分が強くなる必要もありますが、周りの支えというのも必要であるということでしょうか。心の持ちようで現実の受け止め方が変わる。そうすることで困難な状況にも立ち向かえるものだと思います。
みんながみんな金森先生になれる?本書の印象は非常に良かったです。読んでいて新しい知見も得られましたし、自分の経験と結びついたことが多かったです。
ただし、すべての先生が金森先生になれるかというと、そうではないなと感じました。まず、教員というのはあくまで「個人であるだれか」がやっているわけでして、すべての教師が子どもを的確に受け止めてつながりを作れるかというとそうではない。
その難しい実践を行っているからこそ金森先生は評価されているんだと思いますが、別の本を読んでいくとある一人の教師像を全体に一般化することは危険だぞとも感じている次第です。このあたりの話は、菅野仁著『教育幻想―クールティーチャー宣言―』や諏訪哲司著の『学校のモンスター』を読めばわかるのですが、この話を書くと新しい記事が必要になるのでやめておきます。機会があれば書こうと思います。
今の自分がやらないといけないことは、いろいろな先生の実践や自分の知識をいかにうまくくみ上げ自分のスタイルを作ることだと考えています。金森先生になることはできないし、なる必要もないと思いますが、それでも自分も受け持っている生徒たちが今日も学校に来てよかった(ハッピーだった)と思ってもらえるよう努力していきたいと思います。