2011年01月31日

心に人を住まわせる、心に定員はない

1つ前の記事に関連して、去年の1月30日に自分の大学院で金森先生の講演会があり、またとないチャンスと思い参加しました。本当はその日に感想を上げたかったのですが、いろいろあって1年後と相成りました。ちょうど、金森先生の本を読んで火がついたのでその当時のレジュメを引っ張り出し、感想を書こうと思います。ただ、自分のメモ書きを参考にして思い出して書いているため、話が前後していたり、内容が間違っていたりすることがあることがありますが、ご了承ください。

まず自分がやったのはこの講演会の予習でした。そのために、前日に手持ちの「涙と笑いのハッピークラス 4年1組 命の授業」のビデオを鑑賞、さらに手持ちの新書で扱われていた自分の引っかかっていたテーマを金森先生にぶつけるために予習していました。

具体的に読んだ新書は2点。1つ目は土井隆義氏が著した『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル』、そしてもう一つが原田曜平氏の著した『近頃の若者はなぜダメなのか 携帯世代と「新村社会」』です。この2冊の新書は共通して現在の若者に蔓延する他者に過剰に同調しなければならない、すなわち「空気を読む」という若者の息苦しい風潮が取り扱われていました。(これらの新書の感想は機会があれば書きたいなと思っています)

この当時、個人的なことで自分も苦しんでいたわけですが、それも手伝って「若者はつながりを求めているのに、他者とぶつかることを極端に恐れ、本音の言える真の人間関係が築けていない。その中で我々はどのように他者とつながればいいのか」ということを金森先生にぶつけてみようと考えて講演会に臨みました。

金森先生の第一印象
会場に入ると、例の涙と笑いのハッピークラスが上映されていました。その前に金森先生が控えていた形になります。とりあえず、開始直前に入ったので席は後ろのほうで講演を聞くことにしました。

金森先生の第一印象はテレビで出ていたそのまんまの人だなあという印象でした。つまり、明朗活発なしゃべりでぐいぐい話に引き込まれる。長年小学校の教師を勤めており、定年を迎えて一線を退いているような人には見えませんでした。こういうしゃべりができると、生徒が飽きなくて済むのですが・・・。

「手紙ノート」についての説明
まず金森先生がお話されたことは、ちょうど直前に上映されていたハッピークラスの説明でした。テレビでは描かれていなかった裏事情の話をいろいろと聞かせてくれました。

まず、手紙ノートは金森先生のクラスでのみの実践で「制度としての学校としてはやらない」ことを話してくれました。手紙ノートは、子どもがその日伝えたい人に伝えるもので、前日に病気で休んだ人が一番最初に発表する。そしてそれに子どもたちが「返信」するというわけです。これは朝の学級活動の時に行うとのこと。

「返信」は意見のある人を立たせて発言させていく形になるのですが、基本的に子どもは何でもかんでもしゃべり続けてしまい、収拾がつかなくなることがあるので基本的に3〜4人程度で止める。ただし、「重要な案件」の場合は授業時間を削ってでも全員に話させるとのことです。

『ハッピークラス』で描かれた死
『ハッピークラス』ではある男の子のおばあちゃんが亡くなり、そのことをその男の子が手紙ノートで発表していました。基本的にこの手の「死」についての話題は学校では避けようとすることを金森先生は指摘、話題にしたとしても子どもたちは口をあけ、周囲は聞いていない状況になってしまうと述べていました。

また、3歳の時に父親を亡くした女の子の背景も教えてくれました。父親の死因は過労死、しかも母親は第2子の出産で入院していました。父親の死と第2子の誕生が同時に起きたわけです。そして、家にいたその女の子は、齢3歳にして父親が動かなくなったことを病院に一人で電話し、知らせたとのこと。テレビでは描かれていませんでしたが、このような背景があったそうなのです。誰しもが生きる過程で見えないドラマを持っている。そのことを常に頭に入れておくのが大事というわけです。

この話をしたうえで、金森先生は「安易な同情」の危うさを指摘しました。すなわち「かわいそう」という言葉は『私は幸せで、あなたは不幸よ』と言っているように相手には聞こえてしまう。本当に大事なことは安易な同情の言葉を向けることではなく、その人の悲しみに寄り添い、共感すること。それが「心に人を住まわせる」ということだと述べていらっしゃいました。

ここでの話はテレビの補完的な内容でしたが、裏ではかなり厳しい現実に子どもたちは向き合っていたのだなと思いました。ただ、この子たちが「特別」ということはないと思います。遅かれ早かれ、人間はいつかは死ぬ。そのような状況に直面した時、どう対処すればよいのかを考える。子ども時代だからこそ、考えてほしいことではないかと思います。

命の教育
命の教育を実践されている金森先生ですが、彼自身は「命」という言葉を普段はあまり使わないとのことです。先生は命の教育で大切なことは、子どもに生きていて最高と思えることを保障することだとおっしゃいました。レジュメには「きらめきの少年期を作る」と説明されています。

大人の世界では飲み会やカラオケなどのバカなことをやってストレスを発散できる場フェスティバル文化)がいくらでもあります。しかし、一方の子どもは地域の遊び場や自然、そして地域のお祭りなどのフェスティバル文化が消滅してしまい、ストレスをうまい具合に発散できなくなってしまった。

そこから金森先生は子どもにとってのフェスティバルを作り、きらめきの少年期を保障してきたと述べていらっしゃいました。ハッピークラスでは泥んこサッカーやいかだ作りが具体的な例です。大人からすれば無駄でバカげたことですが、子ども時代は基本的に「バカげたこと」で子どもストレスを逃がし、野生を身につけさせる。そういったプロセスがなければ「心を他者に開く」「豊かな人間関係をはぐくむ」ことはできないとおっしゃっていました。

また、前で紹介した本にも載っていましたが大人たちは「キャッチャーであれ」と主張。これは言葉で指示するのではなく、普段の自分たちの生きざまを子どもたちに見せることで、いわば野球の「サイン」のような形で示していく。また、キャッチャーは野球では司令塔でもありますから、敵も味方も深く読み込む。こういったことを普段から意識されていたとのことです。

ただし、勘違いしてはいけないのはしつけは逆に「ピッチャーであれ」ともおっしゃっていました。学校は、社会に出るためのいわば練習の場でありますから、子どものうちからしっかりとそのあたりはしつける。『ハッピークラス』でもおしゃべりをしていた児童をきつく叱る場面がありましたね。子どもを受け止めることも必要だが、必要な時はしっかり叱ることも大事だということなのでしょう。

いつもこの手の全国の教師のモデルとなる先生や年配のしっかりしたベテランの先生を見ていて思うのですが、こういった先生方は生徒指導が確実にうまいです。ほめるべき時はほめ、叱るべき時はしっかりと叱る。どちらか一方に偏ることなく、相反する二つの要素を時々に応じて使い分け、バランスを取る。これが自分も教員をやるうえで必要なことだなといつも思います。

フェスティバル文化ですが、高校生の場合は特別活動、すなわちクラブや文化祭であるとか体育大会だとか合唱コンクール等をうまく活用できればなと思います。特に、高校生になると科目の学習の比重が大きくなり、基準が満たされなくなれば単位認定が出ません。必然的に定期テストや受験などに高校生は追い立てられるわけですが、やはりそればかりではいけないでしょう。

余談ですが、暗黙のうちにできているフェスティバル文化があると思います。ただし、負の方向のものですが・・・。それが、『友だち地獄』等でも描かれている「いじめ」です。この手のいじめは、まるで当番制のごとく加害者と被害者が簡単に入れ替わります。しかも、厄介なことにこれは子どもの世界のみならず大人の世界にもあったりします。

金森先生も著書の中で指摘していますが、自分の中のエネルギーが負の方向に向った時、いじめが発生する。どうも今の世の中、閉そく感がありその不安を他者や自分にぶつけているようにしか見えません。これも人と人とがつながらなくなってきたからでしょうか・・・。

金森先生の講演を受けて、「輝かしい高校時代を保障する」という考え方が生まれました。このことは自分の現場での一つの理念となっています。

次の記事へ続く・・・
posted by ブラック・マジシャン at 02:26| 兵庫 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 勉強・学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/183264175
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。