能力的存在としての子ども
教育に関連して、大人の子どもを見る時の視点が「できる/できない」に焦点が行きがちであることを指摘しました。子どもはいわば、能力的存在になっていて、勉強、スポーツ、習い事などの能力を身につけることを要求される存在になっていることを指摘しました。つまり、子どもは「これこれできるようになりなさい」と塾や習い事に行かされ、能力を身につけることを要求され、あてにされる存在になっている、それが能力的存在というわけです。

子どもは4年生になるまでは期待にこたえ続けるが、それを過ぎてしまうと押しつぶされるか、大人に反抗するなり、問題になるということです。先に紹介した本でも、子どもが期待にこたえられずに苦しんでいる姿が説明されていました。

「取り柄」の本当の意味
次の学習指導要領では、学力向上がうたわれていますが、金森先生は子どもを学力向上の対象者としてしか見ていないことを懸念していらっしゃいました。結局のところ、大人たちは子どもたち一人一人の人格面を評価しているわけではないと。

「取り柄」という言葉がありますが、今と昔で意味が変わってしまっている指摘しました。つまり、今の取り柄とはその人の能力をさす。その人が何ができるのか、それが役に立つのかが大事と思われています。

しかし、昔の取り柄の意味はその人の人格にかかわること。たとえば、気は優しくてまじめな性格であるとかそういったその人の人格にかかわるものが取り柄でした。子どもたちを見る時は、人格面も認める必要があるわけです。

「持つこと」ではなく「あること」が大事
結局、今の教育というのは子どもたちに「持つこと」を強いている側面があるということです。つまり、できうる限りの能力を子どもたちに「持たせ」ようとしている。また、学校側もよりよい教育のために様々な設備を持とうともしています。

しかし、金森先生は持つことよりもあることが大事だと説いていました。教員側に求められることは子どもたちに能力を持たせることでも、設備を充実させることではなく、おかれた環境下の相手から学ぶ姿勢を持つ。目の前に「あるもの」を自分を読み解くために使い、自分自身が分かっていくことが必要だということ。目の前にあるもので、学びあう関係性を子どもたちの中に作り、置かれた関係でどう「ある」べきかを考えることが大事だということでした。

そのためにはこの世を読み解く力、すなわち分析力が必要になるということです。

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