人間は、現実の苦難から逃れようと、しばしば自分だけの「ユートピア」を頭の中で作り出す。そして、それを文章や、音楽、詩、絵などの形で表現する。これらの像は、絶対的なものではなくて、その時々の時代背景や社会背景、その人の考え方によって相対的に変わってくる。この作品論においては、授業で使用された文学作品、”Adventures of Huckleberry Finn”(ハックルベリー=フィンの冒険)、”The Grape of Wrath”(怒りの葡萄)、”Fahrenheit 451”(華氏451度)の3作品におけるユートピア像を観察し、各々の作品中の、もしくは現実の時代を生きた人間たちは、どのような「ユートピア」を求めていたのか、また「ユートピア」とは何なのかを突き詰めて考察する。
本論に入る前に、ユートピアとは何かという定義を明らかにしておく。授業において配布されたプリントでは、「現実よりも良い世界」、「現実の苦難から逃れられる場所」と定義されている。今回の作品論では、この観点から、考察を展開する。
まず、「ハックルベリー=フィンの冒険」に関しては、二人の主人公、ハックとジムの各々のユートピア探しのための放浪と解釈できる。ハックは、父親の暴力や、おばさんたちが押し付ける規律から逃れられる場所を探し、旅に出た。一方、黒人奴隷であるジムは、「奴隷」という身分や差別から解放され、理不尽な暴力に晒されることのない、家族と平穏に暮らせる場所を探求し、ある程度利害の一致している白人のハックと共に旅に出た。
二人にとって、共通のユートピアとは「暴力から逃れられる場所」であるといえる。父親と子、主人と奴隷という下で行われる理不尽な暴力。それから逃れるために、二人は川くだりの旅に出た。
しかし、決定的に違うのは、「人種に対する意識」である。ハックは差別される立場にいなかったのだから、ジムの「白人も黒人も平等に扱われる場」というのは、奇妙なそして絶対にありえない理想郷に見えた。それは、白人たちからすると、貴重な労働源を失ってしまう、ある種の地獄図なのかもしれない。
また、旅の過程で彼らは各地で無数に存在する、欺瞞、暴力、差別に直面していく。自分たちの求めるユートピアとは真逆を行くのが、現実世界であるということをこの小説は描いている。
「怒りの葡萄」においてのユートピアとは、「無職」と「飢え」から解放された世界である。アメリカという世界最大の国の歴史の中で起きた、理不尽な飢え。生きるために働かなければならないのに、仕事はない。銀行や雇い主たちは、労働者を生かさず殺さずの状態で放置し、政府は何の保障も与えてくれない。最低限度の条件を保とうと交渉を行ったり、労働争議を起こしたりすれば、共産主義者といわれ排他される。このように、享受できて当然の権利を享受できないという状況を「怒りの葡萄」は提示する。現代社会で何不自由なく生きている我々が当然と思っていることが、実はユートピアであると表現しているのが、「怒りの葡萄」なのである。
しかし、物語中では主人公たちがユートピアと信じて、目指した場所であるカリフォルニアも、皮肉なことに飢えと理不尽に満ちた地獄であった。世界大恐慌という、思いもしなかった出来事がもたらした地獄。その地獄の中で生きた人々が、ユートピアと信じ、不断の努力を続けて勝ち取ったものが、我々の住む現代社会なのかもしれない。
「華氏451度」においてのユートピア像とは、「文字が読める」世界である。これは、文字を封じられた世界だからこそ成り立つユートピア像であって、文字を読むこと、本を読むことを禁じられていない我々には、「ユートピア」からは程遠いものである。
「華氏451度」の著者が、文字が読めないという特異な世界を想像できたのは、テレビの普及がもたらす文字媒体への影響と、マッカーシズムという思想統制の危惧が、当時叫ばれたからであった。テレビを利用して、思想の統制を行い、自分の思想を表現することは出来ない。さらに、文字が使えなくなることにより、人間は物を記憶することをやめていった結果、身体に異常をきたしていく。そして、画一的な返答しか返ってこないテレビに依存し続けた結果、ワンパターンな考えしか出来なくなる。そういった人間は、考えることをやめた「生ける屍」状態になってしまう。文学を生業とする著者にとっては、この世界は地獄絵そのものである。アメリカの政治情勢や社会システムの変容が生み出すかもしれない、逆ユートピア。そのような世界に入っていけば、今何気ないことがユートピアとなる。
尚、映画版「華氏451度」では、この世界の究極のユートピアを描写している。それが、「人間が本になる」ということである。もちろん、これは比ゆ的な言い方で、実際は本丸ごと一冊を、一字一句、正確に覚えてしまうということである。(ちなみに、覚えた本は自らの手で燃やしてしまい、誰にも奪われないようにする)本を丸暗記するという作業は、常人がやろうと考えると時間も手間もかかるし、何の意味があるのかわからない。だから、たいていの人間がその作業をしようとなると、途中で挫折してしまうだろう。無理にこのような作業を続けさせては、それは単なる「苦痛」である。我々にしては、何の意味もない無価値で苦痛に過ぎない行為が、本を所持していれば逮捕され淘汰されていく世界の住人にとっての究極のユートピアなのだということを、この作品は提示する。つまり、「ユートピア」、「地獄」と一口に言ってもそれは絶対的なものではなく、ある視点の人間からすると、当然のこと、奇妙なこと、苦しいことも、違う視点を持つ人間にはユートピアに写るということだ。(もちろん、逆にもなりえる)
以上の観察からわかることは、「ユートピア」という言葉一つをとっても、さまざまな像を作ることが出来るということである。19世紀にあらわされた「ハックルベリー=フィンの冒険」で描かれるユートピア像は、20世紀の「怒りの葡萄」のそれとは違う。さらに、我々一人一人が当然のことと思っていることや奇妙に見えるものでも、前提条件が変わってしまえば、ユートピアにも地獄にもなりえるということを「華氏451度」は示している。ある程度の共通項はあるとはいっても、視点が違えば、物事は違って見えるということだ。
また、これら作品の共通点として挙げられることは、登場人物たちが目指しているユートピア像とは、全く正反対のものを同時に描写しているということである。「ハックルベリー=フィンの冒険」では、旅の途中で2人が遭遇する理不尽や暴力や欺瞞がそれに当たる。「怒りの葡萄」においては、自分たちが目指したユートピアでさえも地獄であったという皮肉な現実描写がそれである。「華氏451度」に関しては、他2作と少し毛色が違うが、テレビが普及し、それがユートピアであると考えてやまない人間に対してのアンチテーゼを描き出している。つまり、自分たちが目指しているユートピアは、逆ユートピア、すなわち地獄に十分なりえるということを示しているのだ。
過酷な現実と向き合い、絶望し、それでも尚、自分が求める世界を勝ち取ろうとする人間たちの姿勢。現実とユートピアの双方、もしくはその逆説を丹念に描くからこそ、両方の描写がより深まっていく。つまり、1つの物事の相反する二面性をバランスよく丁寧に描いていった作品は、多くの感動を読者にもたらし、同時に新しい視点も与えてくれる。この絶妙な描写の仕方が、これらの作品が多くの人に支持されている理由なのではないだろうか。
そして、もう一つ特筆しておくべきことは、世界が如何に変容しようとも、人間たちはユートピアを追い求めているということである。今の現代社会では、過去の世界と比べると我々は自由を享受しているし、差別もだんだん少なくなっていっている。しかしながら、それでも尚未だに数多くの苦難が待ち構えている。もしくは、ユートピアと信じて勝ち取ったものが、実は地獄であったということもありえるのだ。だからこそ、ユートピアを勝ち得ても、その裏に秘められている粗に気づいたものが、また新たなユートピアを作り出し、獲得しようとする。つまり、人間はないものねだりを続ける存在であるから、絶対的なユートピア像は存在しないということである。一つのユートピアは、思いがけない地獄を生み出し、また新たなユートピアを人間は模索する。その営みが延々と繰り返される。だからこそ、人間という種が存在し続ける限り、我々のユートピア探索は永遠に続く。
我々はこれから先、どのようなユートピアと地獄を作り出し続けるのだろうか?その答えは、時間が経ってみなければわからない。