まず、江原さんは友達についてこのように定義しています。
友達は、魂を磨きあう相手である。
この前提条件の上で話を展開させていきたいと思います。
本の中で江原さんが友達について色々主張していますが、今までの自分と照らし合わせて、まず自分が理解しなければならないことは次の2つだと思います。
1、友達は数ではない
2、大人の友情は高度で複雑である
2、大人の友情は高度で複雑である
1に関して、ここ最近の私は友達の数の少なさと自らの友達関係の維持の仕方の下手さ加減を嘆いていたのですが、そもそも江原流定義では友達というのは数が少なくて当然なもので、数の多さを鼻にかけたり少なさを嘆いたりするのは筋違いであるということ。
そもそも、数を気にするのは物質主義的価値観でしか、友達を見ていない証拠。そういったものは、真の友情ではない。基本的に、人生は一人で自立して切り開いていかなければならないものだから依存心を持ってしまうのは禁物であるということですね。
2に関して、私が最大に考え違いしていた点でしょう。会社などで働く手前、立場が出来てしまうのは必然。更に、個々人で様々な経歴を持ち合わせているわけですし、必然ある程度仮面をつけて生活しなければならないのが大人の世界です。
今までの自分は常に江原さんの言うところの「純然たる友達」を求めてきましたが、それは子ども時代に作られるものであって、大人ではそのような関係を作るのは非常に難しいということ。前にカテゴリー化された友達関係は好きではないと書きましたが、これから先の友達関係はカテゴリー化されているものと割り切らないといけないようです。
今の私の友情観を支えているのは、オーストラリアでのカードゲームの友達だったり、大学で出来た友達だったりするのですが、あの国は非常に純然たる友達を作りやすい環境だったのだなということが分かりました。
一方で、日本の人間関係は非常に複雑で素のままの自分を出すことは難しいと。そういう環境であるということは理解していたつもりですが、自分はあの国で学んだ友情観を大事にしようとして、あまり良い目を見なかったわけですが、それは複雑さと繊細さが求められる世界で別の方法論を通そうとしたから自爆したわけですね。
友達を作るということと維持するということは非常に難しい作業であるという事を再認識しました。
参考文献
江原啓之(2007) 人間の絆−ソウルメイトをさがして 小学館