自分を成績主義者・勝敗主義者たらしめる要素その2。私は、自分がプライドをかけていることを馬鹿にされるのが嫌いです。ですから、最近になっては自分は相手のことを馬鹿にしないように努めています。
これが、服装だとか彼女いるいないとかの自分がどうだっていいと感じていることに関しては放っておけるのです。前者は、暑さ寒さしのげて、綺麗な服を着ていれば十分、彼女云々も友人関係ですら、表層の関係が嫌いな自分は、まるでアクセサリーのように女性と付き合うのが嫌なのです。(もてない自覚もあります)付き合うなら、自分が心から愛せる人でないと駄目と思っているから、やっぱりこれも無視できる。
しかし、これが今まで自分が打ち込んできた英語であるとか、教員になることに関しては嫌なのです。立場上上である先生や自分が認めている友人などに悪いことを言われたら、まだまだだなという自覚が芽生えてがんばろうという気になれるのですが、自分の認めていない人に言われるのが一番腹が立つ。
こうなる理由を考えると、どうも私は人に言われたことを真に受けるからこうなるようです。しかも、悪意に関してはわざわざ増幅させて捉えてしまうので人よりも鬱になってしまう。
その結果、他者に文句を言われたくない、馬鹿にされたくない、自分より上がいるのは認めたくないわけですね。そうならないために努力しているつもりですが、どうも中途半端感は否めないし、きりがない。疲れてきます・・・。
戦闘マシーンに中途半端になる点
前から自覚がありましたが、私も結構な目的志向者だったようです。大学時代、最初から教員になることしか考えていなくて、授業も必死に受けました。学費を出すためにバイトをしてきました。人間性が求められるとのことで、クラブや留学もしました。そのために、自分の趣味は自分がやりたいことよりも抑えて、他の人よりも遊びを少なくしました。すべては教員になるため。
教員になるために、採用試験を一撃で通るために、自分の理想とする教育を行うために、すべての障害を排除しようとする。面接重視だといわれれば、そこで相手を打ち負かすために、誰よりも上に行くために、優秀でかつ奇抜なことを言おうとする。それだけじゃ駄目そうなので、筆記試験でも出来るだけ点数はとっておく。すべては、「勝つ」ために・・・。
たとえ、点数主義といわれようが、余裕がないといわれようが、マシーンといわれようが、戦って結果を出さなければ、何にもならない。結果さえ出せれば、相手は何もいえないんだから。
しかし、この考え方自体がおかしいのではないかと気づきました。相手より上に行こうと常に考えて行動している人間の人間性など、たかが知れているのではないかと客観的に思うようになってきたのです。
もし仮に、この考えがまかり通るとすれば、今までやってきた分だけですらまだ足りないのです。振り返ってみて、中途半端だったよなあという自覚もあれば、これではまずいんじゃないかという自覚も出てきました。
人間性の高さ低さを決める要素は何なのか、私にはわかりません。人間性重視という採用試験を通るにはどうすればよいか、まだ見えません。
論理に捕らわれ、心を見失っている点
上と関連して、理路整然であれば人が付いてくると思っていましたが、どうも違うようです。というのも、いかに正しいことを言ったとしていても、その人がどう思うのか、実際にそうしようと思うのかは別問題ということ。つまり、主観と客観は違うということです。
このことを考慮に入れていなければ、いかに優秀な能力を誇ろうが、いかに結果を出していようが、誰も付いてこない。
情報過多な上に、それを100%伝えようとしている点
私の左のコラム集を見ればわかりますが、私は物事を深く深く考察しようとしています。だから、必然的に情報量が多くなっていくし、そのすべてを相手にぶつけようとしています。だから、ブログの記事も結構長いものがあるはずです。
これを通常のコミュニケーションにも適用している自覚が最近出てきました。つまり、私は結構なおしゃべりなのです。しかも、情報を多く提供しようとするあまり、早口になりやすい。気をつけないとなあ・・・。
以上、まだまだ色々ありますが、情報過多からの脱却を図るためにこれまでにしておきます。