2011年01月31日

他者の中に自分を、自分の中に他者を見出す

能力的存在としての子ども
教育に関連して、大人の子どもを見る時の視点が「できる/できない」に焦点が行きがちであることを指摘しました。子どもはいわば、能力的存在になっていて、勉強、スポーツ、習い事などの能力を身につけることを要求される存在になっていることを指摘しました。つまり、子どもは「これこれできるようになりなさい」と塾や習い事に行かされ、能力を身につけることを要求され、あてにされる存在になっている、それが能力的存在というわけです。

子どもは4年生になるまでは期待にこたえ続けるが、それを過ぎてしまうと押しつぶされるか、大人に反抗するなり、問題になるということです。先に紹介した本でも、子どもが期待にこたえられずに苦しんでいる姿が説明されていました。

「取り柄」の本当の意味
次の学習指導要領では、学力向上がうたわれていますが、金森先生は子どもを学力向上の対象者としてしか見ていないことを懸念していらっしゃいました。結局のところ、大人たちは子どもたち一人一人の人格面を評価しているわけではないと。

「取り柄」という言葉がありますが、今と昔で意味が変わってしまっている指摘しました。つまり、今の取り柄とはその人の能力をさす。その人が何ができるのか、それが役に立つのかが大事と思われています。

しかし、昔の取り柄の意味はその人の人格にかかわること。たとえば、気は優しくてまじめな性格であるとかそういったその人の人格にかかわるものが取り柄でした。子どもたちを見る時は、人格面も認める必要があるわけです。

「持つこと」ではなく「あること」が大事
結局、今の教育というのは子どもたちに「持つこと」を強いている側面があるということです。つまり、できうる限りの能力を子どもたちに「持たせ」ようとしている。また、学校側もよりよい教育のために様々な設備を持とうともしています。

しかし、金森先生は持つことよりもあることが大事だと説いていました。教員側に求められることは子どもたちに能力を持たせることでも、設備を充実させることではなく、おかれた環境下の相手から学ぶ姿勢を持つ。目の前に「あるもの」を自分を読み解くために使い、自分自身が分かっていくことが必要だということ。目の前にあるもので、学びあう関係性を子どもたちの中に作り、置かれた関係でどう「ある」べきかを考えることが大事だということでした。

そのためにはこの世を読み解く力、すなわち分析力が必要になるということです。

高校生をぶち破れ!

新任教師としての心構えは何をすべき?
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心に人を住まわせる、心に定員はない

1つ前の記事に関連して、去年の1月30日に自分の大学院で金森先生の講演会があり、またとないチャンスと思い参加しました。本当はその日に感想を上げたかったのですが、いろいろあって1年後と相成りました。ちょうど、金森先生の本を読んで火がついたのでその当時のレジュメを引っ張り出し、感想を書こうと思います。ただ、自分のメモ書きを参考にして思い出して書いているため、話が前後していたり、内容が間違っていたりすることがあることがありますが、ご了承ください。

まず自分がやったのはこの講演会の予習でした。そのために、前日に手持ちの「涙と笑いのハッピークラス 4年1組 命の授業」のビデオを鑑賞、さらに手持ちの新書で扱われていた自分の引っかかっていたテーマを金森先生にぶつけるために予習していました。

具体的に読んだ新書は2点。1つ目は土井隆義氏が著した『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル』、そしてもう一つが原田曜平氏の著した『近頃の若者はなぜダメなのか 携帯世代と「新村社会」』です。この2冊の新書は共通して現在の若者に蔓延する他者に過剰に同調しなければならない、すなわち「空気を読む」という若者の息苦しい風潮が取り扱われていました。(これらの新書の感想は機会があれば書きたいなと思っています)

この当時、個人的なことで自分も苦しんでいたわけですが、それも手伝って「若者はつながりを求めているのに、他者とぶつかることを極端に恐れ、本音の言える真の人間関係が築けていない。その中で我々はどのように他者とつながればいいのか」ということを金森先生にぶつけてみようと考えて講演会に臨みました。

金森先生の第一印象
会場に入ると、例の涙と笑いのハッピークラスが上映されていました。その前に金森先生が控えていた形になります。とりあえず、開始直前に入ったので席は後ろのほうで講演を聞くことにしました。

金森先生の第一印象はテレビで出ていたそのまんまの人だなあという印象でした。つまり、明朗活発なしゃべりでぐいぐい話に引き込まれる。長年小学校の教師を勤めており、定年を迎えて一線を退いているような人には見えませんでした。こういうしゃべりができると、生徒が飽きなくて済むのですが・・・。

「手紙ノート」についての説明
まず金森先生がお話されたことは、ちょうど直前に上映されていたハッピークラスの説明でした。テレビでは描かれていなかった裏事情の話をいろいろと聞かせてくれました。

まず、手紙ノートは金森先生のクラスでのみの実践で「制度としての学校としてはやらない」ことを話してくれました。手紙ノートは、子どもがその日伝えたい人に伝えるもので、前日に病気で休んだ人が一番最初に発表する。そしてそれに子どもたちが「返信」するというわけです。これは朝の学級活動の時に行うとのこと。

「返信」は意見のある人を立たせて発言させていく形になるのですが、基本的に子どもは何でもかんでもしゃべり続けてしまい、収拾がつかなくなることがあるので基本的に3〜4人程度で止める。ただし、「重要な案件」の場合は授業時間を削ってでも全員に話させるとのことです。

『ハッピークラス』で描かれた死
『ハッピークラス』ではある男の子のおばあちゃんが亡くなり、そのことをその男の子が手紙ノートで発表していました。基本的にこの手の「死」についての話題は学校では避けようとすることを金森先生は指摘、話題にしたとしても子どもたちは口をあけ、周囲は聞いていない状況になってしまうと述べていました。

また、3歳の時に父親を亡くした女の子の背景も教えてくれました。父親の死因は過労死、しかも母親は第2子の出産で入院していました。父親の死と第2子の誕生が同時に起きたわけです。そして、家にいたその女の子は、齢3歳にして父親が動かなくなったことを病院に一人で電話し、知らせたとのこと。テレビでは描かれていませんでしたが、このような背景があったそうなのです。誰しもが生きる過程で見えないドラマを持っている。そのことを常に頭に入れておくのが大事というわけです。

この話をしたうえで、金森先生は「安易な同情」の危うさを指摘しました。すなわち「かわいそう」という言葉は『私は幸せで、あなたは不幸よ』と言っているように相手には聞こえてしまう。本当に大事なことは安易な同情の言葉を向けることではなく、その人の悲しみに寄り添い、共感すること。それが「心に人を住まわせる」ということだと述べていらっしゃいました。

ここでの話はテレビの補完的な内容でしたが、裏ではかなり厳しい現実に子どもたちは向き合っていたのだなと思いました。ただ、この子たちが「特別」ということはないと思います。遅かれ早かれ、人間はいつかは死ぬ。そのような状況に直面した時、どう対処すればよいのかを考える。子ども時代だからこそ、考えてほしいことではないかと思います。

命の教育
命の教育を実践されている金森先生ですが、彼自身は「命」という言葉を普段はあまり使わないとのことです。先生は命の教育で大切なことは、子どもに生きていて最高と思えることを保障することだとおっしゃいました。レジュメには「きらめきの少年期を作る」と説明されています。

大人の世界では飲み会やカラオケなどのバカなことをやってストレスを発散できる場フェスティバル文化)がいくらでもあります。しかし、一方の子どもは地域の遊び場や自然、そして地域のお祭りなどのフェスティバル文化が消滅してしまい、ストレスをうまい具合に発散できなくなってしまった。

そこから金森先生は子どもにとってのフェスティバルを作り、きらめきの少年期を保障してきたと述べていらっしゃいました。ハッピークラスでは泥んこサッカーやいかだ作りが具体的な例です。大人からすれば無駄でバカげたことですが、子ども時代は基本的に「バカげたこと」で子どもストレスを逃がし、野生を身につけさせる。そういったプロセスがなければ「心を他者に開く」「豊かな人間関係をはぐくむ」ことはできないとおっしゃっていました。

また、前で紹介した本にも載っていましたが大人たちは「キャッチャーであれ」と主張。これは言葉で指示するのではなく、普段の自分たちの生きざまを子どもたちに見せることで、いわば野球の「サイン」のような形で示していく。また、キャッチャーは野球では司令塔でもありますから、敵も味方も深く読み込む。こういったことを普段から意識されていたとのことです。

ただし、勘違いしてはいけないのはしつけは逆に「ピッチャーであれ」ともおっしゃっていました。学校は、社会に出るためのいわば練習の場でありますから、子どものうちからしっかりとそのあたりはしつける。『ハッピークラス』でもおしゃべりをしていた児童をきつく叱る場面がありましたね。子どもを受け止めることも必要だが、必要な時はしっかり叱ることも大事だということなのでしょう。

いつもこの手の全国の教師のモデルとなる先生や年配のしっかりしたベテランの先生を見ていて思うのですが、こういった先生方は生徒指導が確実にうまいです。ほめるべき時はほめ、叱るべき時はしっかりと叱る。どちらか一方に偏ることなく、相反する二つの要素を時々に応じて使い分け、バランスを取る。これが自分も教員をやるうえで必要なことだなといつも思います。

フェスティバル文化ですが、高校生の場合は特別活動、すなわちクラブや文化祭であるとか体育大会だとか合唱コンクール等をうまく活用できればなと思います。特に、高校生になると科目の学習の比重が大きくなり、基準が満たされなくなれば単位認定が出ません。必然的に定期テストや受験などに高校生は追い立てられるわけですが、やはりそればかりではいけないでしょう。

余談ですが、暗黙のうちにできているフェスティバル文化があると思います。ただし、負の方向のものですが・・・。それが、『友だち地獄』等でも描かれている「いじめ」です。この手のいじめは、まるで当番制のごとく加害者と被害者が簡単に入れ替わります。しかも、厄介なことにこれは子どもの世界のみならず大人の世界にもあったりします。

金森先生も著書の中で指摘していますが、自分の中のエネルギーが負の方向に向った時、いじめが発生する。どうも今の世の中、閉そく感がありその不安を他者や自分にぶつけているようにしか見えません。これも人と人とがつながらなくなってきたからでしょうか・・・。

金森先生の講演を受けて、「輝かしい高校時代を保障する」という考え方が生まれました。このことは自分の現場での一つの理念となっています。

次の記事へ続く・・・
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2011年01月30日

「子どものために」は正しいのか

久しぶりのブログ更新ですが、この間書店に行ったときに本ブログでも扱った金森俊朗氏の本を見つけて衝動買いし、かなり強烈に印象に残ったので筆を取った次第です。

タイトルは『「子どものために」は正しいのか』というもの。ここでいう「子ども」というのは具体的には小学生くらいの子が対象ですが、中学生・高校生にも当てはまるぞと感じたことが多く非常に参考になりました。

本書の第1章では、金森先生の経験を中心に現在の子ども像、社会像、家族像が語られ、2章では1章で述べられたことを踏まえて金森先生の教員としての実践が述べられていました。第3章では子どもを持つ人向けにこれから子どもに対してできることを述べています。個人的には特に1章、2章の内容が深く印象に残っていますので、そこで印象に残ったことを書いていこうと思います。

結果だけでなく、豊かな人間関係に目を向ける
金森先生は、現代の子どもたちが「できる/できない」という結果のみに焦点を置いた成果主義の波にさらされていることを指摘しています。親の期待を一身に受け、塾や習い事に通わされる子どもたち。本の中では小学2年生にして「赤ちゃんのころに戻りたい。今は勉強や習い事などやらないといけないことがいっぱいある」と漏らした子どもの例や、全国学力調査で平均点を落とさないように成績の悪い生徒は強制的に欠席させられた例が挙げられていました。親や周りの大人たちは子どもたちをできるできないという視点でしかものを見ていない、そのことに対して子どもが疲れているということを指摘しています。

これに対して、平泳ぎで25M泳げるようになった子どもの作文を引き合いに出し、子どもたちには成長する過程で「豊かな人間関係」が必要だということを指摘しています。作文を書いた子は最初は平泳ぎができなく自信を失っていたのですが、周りの友だちが応援してくれたり具体的に教えてくれたりして、やっと平泳ぎができるようになったという喜びを書いていました。できないことばかりで子どもを責めただけでは、子どもは自信をなくしてしまう。しかし、寄り添い支えてくれる人間関係があれば、目の前の試練も乗り越えることができる、できないことができるようになっていく。このように金森先生は指摘しています。

自分の経験と照らし合わせて、人間が成長するためには本人の努力も確かに必要ですが、周りの支えがあるから努力が続く面もあるのだなと感じました。というのも、自分も小学生に勉強を教えているのですが、自分の受け持っている小学校2年生の女の子が「文字が書けるようになってうれしい」、「漫画が読めるようになってうれしい」、「勉強が楽しい」と言ってくれたことがあります。このことが金森先生の言葉と自分の経験とが重なり、そう感じた次第です。

しかし、今の時代はその「豊かな人間関係」が築きにくい状態にあると思います。大学生のころから引っかかっていた「友だちのカテゴリー化」がその要因の一つですし、院生時代には今の社会のありようも人間関係に対して信用が起きにくい状態にしていると気付きました。それらを次で見ていこうと思います。

昔と今の家族/社会の違い
まず、自分が院生時代の時に衝撃を受けたのが「一人で生きていける社会になった」という授業での指摘です。今は不況といわれていますが、便利な時代になりました。お金さえあれば、コンビニに行ってパンなりお弁当なり買えば食事にありつけるし、洗濯も洗濯機に放り込んでボタンさえ押せばそれでおしまいです。昔は他人と協力してやらないといけなかったことが今では一人でできるようになった。それがゆえに物質面に関して生きていく上では人と人とがつながる必要がなくなった社会となりました。

さらに、今は自分に対して消費することが最大の幸福とされています。つまり、おしゃれをするだとか旅行に行くなどの、個人が自分の好きなことをすることが良いという風潮にあると思います。このような世の中になったので、人と人とのつながりが(見かけ上は)薄くなり、個人が肥大化した状態にあるのが今の社会の姿だと自分は考えています。

金森先生は、社会や家族に子育ての「砦」が減っていることを指摘しています。つまり、昔は拡大家族でしたから家に祖父母もいるし、兄弟も多い。親戚も近くに住んでいることが多かった。さらに、長年顔見知りのご近所や地域の人がいた。これらがいうなれば、子どもを守るための砦となり、子ども一人をいろいろな人々が面倒みている状況にあったわけです。

しかし、いまの社会は核家族化を通り越して無縁化が進んできています。兄弟・親戚は散り散りになっているし、いない場合もある。さらに、個人主義化が進み地域の人とのつながりもない。結局、子どもを親が全面的に見なければならなくなり、負担が大きくなったと金森先生は指摘しています。

個人の幸福が美徳なわけですから、その個人を縛り、やらなければならないことの多い子育ては相反する要素です。さらに、周囲に助けを求められないわけですから親のストレスは増大、果ては子どもを放っておいて衰弱死させるなんてことになる。便利さと物質的な豊かさを求め、個人が好きに生きられる時代の暗部がここにあると思います。

「お前はうちの子じゃない」は今と昔では重みが違う
表題は金森先生の本から取ってきたのですが、「お前はうちの子じゃない」はよく親が子どもについ言ってしまう言葉です。・・・が、今の社会でこのようなセリフで子どもを責めるのは、非常に深刻な事態になることを先生は指摘しています。

昔だったら、このようなセリフを言われたりだとか、ひどい叱られ方をしても、何か夢中になれる遊び(木登り、チャンバラごっこなどなど)が外にあったし、親戚の人や地域の人々がフォローしてくれました。これも子育ての「砦」だったのですが、今はフォローしてくれる人だとか、夢中になれる遊びが外にはありません。それゆえ、子どもは親の辛辣なセリフを受けた時のストレスを逃がすことができなくなっていると述べられています。

つまり、昔だったら、親の叱り方が多少行き過ぎていた場合でも、何とか立ち直ることができた。しかし、今はそうじゃない。だから、子どもを叱るときは、両親のどちらかがフォローに回るなり、ある程度の余裕が必要であるというわけです。

この箇所を読んだとき、目からうろこが落ちました。人間が成長するためには共同性が大きく貢献しており、個人主義化が進んだからこそ子育てが難しくなった。物質面では餓死するような子どもたちは今は虐待でもない限りありませんが、精神面で非常に負担の大きい社会になってしまったんだなあと感じたのです。

共同性の喪失はほかの本でも読んだことがありますが、精神面に対しての指摘をしている人は金森先生が初めてでした。金森先生の視点は、うまく現代と過去を捉えていると思いました。

目の前の現実は変わらないが、心の現実は変えられる
いろいろと現実的な問題が目に留まり、頭を抱えるところです。しかも、社会という大きな流れで個人の力では変えることはかないません。それは子どもも同様で、つらい経験を現在進行形でしている子だっているわけです。

そういった現実の中で生きていくにも金森先生は「つながりあう」ことが大切だと言っています。目の前のつらい現実を変えるのは無理かもしれないが、そのつらい状況を分かってくれる、もしくは寄り添ってくれる存在がいるだけでも人間は安心できる。そのために、豊かな人間関係を築く必要があると述べていました。

実は個人的なことでも悩んだ時期があるのですが、一人の友だちの言葉で救われた経験が自分もあります。目の前の現実は変えられなくても、だからと言って逃げることはできない。その困難を乗り越えるには自分が強くなる必要もありますが、周りの支えというのも必要であるということでしょうか。心の持ちようで現実の受け止め方が変わる。そうすることで困難な状況にも立ち向かえるものだと思います。

みんながみんな金森先生になれる?
本書の印象は非常に良かったです。読んでいて新しい知見も得られましたし、自分の経験と結びついたことが多かったです。

ただし、すべての先生が金森先生になれるかというと、そうではないなと感じました。まず、教員というのはあくまで「個人であるだれか」がやっているわけでして、すべての教師が子どもを的確に受け止めてつながりを作れるかというとそうではない。

その難しい実践を行っているからこそ金森先生は評価されているんだと思いますが、別の本を読んでいくとある一人の教師像を全体に一般化することは危険だぞとも感じている次第です。このあたりの話は、菅野仁著『教育幻想―クールティーチャー宣言―』や諏訪哲司著の『学校のモンスター』を読めばわかるのですが、この話を書くと新しい記事が必要になるのでやめておきます。機会があれば書こうと思います。

今の自分がやらないといけないことは、いろいろな先生の実践や自分の知識をいかにうまくくみ上げ自分のスタイルを作ることだと考えています。金森先生になることはできないし、なる必要もないと思いますが、それでも自分も受け持っている生徒たちが今日も学校に来てよかった(ハッピーだった)と思ってもらえるよう努力していきたいと思います。

「子どものために」は正しいのか (学研新書) [新書] / 金森 俊朗 (著); 学習研究社 (刊)
posted by ブラック・マジシャン at 23:59| 兵庫 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 勉強・学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月19日

教育委員会のホンネ

院生時代から新書を読むようになったのですが、ちょっと書店で立ち読みした本で面白い内容があったのでブログで紹介します。

『先生のホンネ』という本なのですが、立ち読みしながらパラパラページをめくると最後のあたりにここ数年の高校教員の年齢比率を表したグラフがありました。驚いたことに、3年前の2007年の全国高校教員(私立含む)の中で25歳未満の教員の割合が0.8%だったのです。

25歳以上を超えるとぐんと伸びて約5%になるのですが、25歳未満の教員の数があまりにも少なすぎます。この手のグラフは20代というくくりで出ていることが多いので、20代だけでみた数値の5.8%だけを見たら騙されているところでした。ちなみに、2004年は約1%だったのでさらに減少しているということです。

実際は25歳未満の常勤・非常勤の先生も多くいらっしゃるので、この数値は常勤・非常勤を抜いた上での計算だと思うのですが、それでも低すぎます。さらに、私立は1年間常勤講師をすれば自動的に教諭に上げてくれる学校もあるので、公立学校となるとさらに低くなるのでしょうはないでしょうか?

おそらく、意図的に25歳未満からは採っていないのでしょうね。新卒というと、いちばん早くて22〜23歳ですから、高校の生徒とは10歳も年齢が離れていません。これが小学校中学校なら、10歳〜8歳以上離れているので問題がありませんが、高校だと年齢が近すぎるので生徒と一緒になって色恋沙汰などの問題が起きかねません。その様な危険因子を持っているものを正式採用するのは都道府県側としてはリスクが高い・・・というのが本音なのでしょう。

自分の周りでも、院生卒業で高校教員に正式採用されている人は学部に入る前に浪人をして院を出るころには25才を超えている人でしっかりしている人(大人っぽくって能力がある人)でした。

今まではその場の面接で試験官から良い評価を引き出せば良いと思っていたので、この数値を見たときに愕然としました。この事実を知っていれば、もう少し気持ちの持ちようが変わっていたんですが・・・。世の中というのは純粋な能力合戦や公平な試験だけで回っているのではないということがよくわかりました。やはり、本は日ごろから読んでおくべきですね。

ちなみに自分は早生まれなので、来年25歳になります。来年の採用試験以降が焦点となりそうです。一次試験は突破しているし、二次試験も攻略法がだんだん見えてきているので頑張ります。


先生のホンネ 評価、生活・受験指導 (光文社新書 486)

先生のホンネ 評価、生活・受験指導 (光文社新書 486)

  • 作者: 岩本 茂樹
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2010/10/15
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2010年03月26日

「おられる」は間違った尊敬語の形式か?4+書いた後の感想

4. 結論
本レポートは、「『いる』の尊敬語は『いらっしゃる』」であるという主張を「おられる」と比較して、批判的に考察した。その結果、実際のデータを見ると「おられる」も広く使われていそうであり、かつ昔からの用法を挙げて「おられる」を完全に正当化する立場も存在することがわかった。

ただし、「おられる」を尊敬語、謙譲語@、謙譲語Aなどといった機能面や自動詞および他動詞などの文法的な特性から考えると、合理的でない部分も孕んでいるグレーな存在であることもわかった。そして、「おる」の意味を実際に即してもう少し考えるべきであるということもわかった。

このように、昔からあることにはあるのだけれども、機能面と文法的に考えればグレーゾーンの部分がある「おられる」を聞けば不快感を示す人間もいるはずである。よって、「おられる」よりも安定して受け入れられている「いらっしゃる」を使ったほうが無難ではないかと思うので、「おられる」をある程度認める形の論考を行ったが、少なくとも私は「いらっしゃる」を授業などの公の場では優先して使用するように心がけたい。

私は英語教員志望であるが、言葉を子どもに対して教える立場の人間であることには変わりはない。言葉は、英語や日本語という枠組みを超えて、人間関係を作るための橋渡しをする大事な道具である。だからこそ、「昔ながらの不条理な頑固親父理論」を振りかざしてまで保守に走ろうとする規範文法のような立場もあるし、おかしいところは変えてゆき、変化を受け入れようとする認知言語学のような立場もあるのである。

昔の人々が「言葉は言霊」と言ったように、その人と人とをつなぐありがたい道具を大事に使用し見つめる必要がある。そのために、今ある言葉や昔からある言葉を実際に即しながら繊細に捉えて、少なくとも「昔からあるから」とか「今流行っているから」と言って、何でもかんでも無批判に受け入れることはしないでおきたい。

参考文献
宮内庁(2005) 『皇后陛下お誕生日に際し(平成17年) 宮内記者会の質問に対する文書ご回答』 http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h17sk.html Accessed on August 3rd in 2008
諏訪哲二(2007) 『学校のモンスター』 中公新書ラクレ
萩野貞樹(2005) 『みなさん、これが敬語ですよ。図でよくわかる敬語のしくみ』 PHP文庫
言語生活論の講義資料

書いてみた感想
このレポートは夏休み直前、修士論文中間発表前に書いたものです。修士論文の発表を控えていたのですが、ちょっと調べてみたら結構おもしろかったので頑張って書きました。

修士論文を書くにあたって基本的な要領をつかめてきた時期なのでいろいろなことに気を遣って書いています。修士論文と比べてしまうと短いレポートですが、以下のことは守るようにしました。

1、尊敬語、謙譲語@、謙譲語Aなどの概念規定や言葉の定義をはっきりさせる。
2、一度はっきりさせた言葉の定義は恣意的に曲げたりせず、本文中での一貫性を確実に持たせる
3、過去の文献に目を通し、どのような議論が行われているかを正確に捉え、何が欠点なのか指摘する
4、実際のデータを身近なものや自分が読んだ書籍から取ってくる
5、先にあげた概念規定を実際のデータや過去の文献から照らし合わせながら、独自の論を組みあげていく

こういったことを守っていけば、基本的な論文フォーマットは固まります。特に言葉の定義や概念規定がぶれてしまうと、論がめちゃくちゃになってしまいますので気を付けました。

慣れるまでは時間がかかるし、何回すり合わせても穴が出てきてしまいますが、安定した議論を行うには上記のことはどうしても必要なことだということがわかりましたね。この知見は修士論文に大いに生かされました。
posted by ブラック・マジシャン at 03:17| 兵庫 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 勉強・学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月25日

「おられる」は間違った尊敬語の形式か?3

3. 萩野(2005)を批判する
ただし、萩野(2005)に「ゴキブリ理論」と一方的にこき下ろされて痛烈に批判されてばかりでは、認知言語学を学んだ者としてのプライドが許さないため、ある程度の反論を試みたい。萩野(2005)の「おられる」理論は、自動詞と他動詞の概念を見落としており、かつ「今」の言語データがなく、更に「言葉はかくあるべき」論に陥ってしまっており、実際に即してはいない。

3.1 二重敬語は非文法的
萩野(2005)は「おられる」の項目において謙譲語に対し尊敬語は付かないことはないと指摘している。これも「おられる」を認める観点の一つである。これは授業においても指摘されたことである。

現代の日本語では、尊敬語に尊敬語をつけた形、すなわち「二重敬語」は容認されていない。

(19) *先生が、そのようにおっしゃられていました

(19)は、「言う」の尊敬語である「おっしゃる」の未然形に尊敬の助動詞である「・・・れる」がくっついた形になっている。これは、尊敬語に尊敬語を重ねた形の二重敬語で、古典では天皇の動作に対して使われていたが、現代の日本語の文法では容認されていない。この二重敬語のように同じ種類の敬語が二つ使われた形は非文法的である。

ただし、授業では種類の違った敬語同士ならばくっつけることが出来ると認められていることが指摘された。その概念を説明するために、謙譲語@の概念が必要となる。

3.2 謙譲語@と尊敬語
謙譲語@の機能は「目的語(動作の対象)を高めること」である。その形式は、構文型ならば「お/ご〜する」もしくは「お/ご〜申し上げる」であり、尊敬語と同様に対応する専用の語があるならばそれを優先的に使うようになっている。

(20) 課長が部長にお会い申し上げました。
(21) 課長が部長にお菓子を差し上げました。

(20)、(21)はそれぞれ謙譲語@の使用例である。謙譲語@は動作の対象、すなわち目的語を高める機能を持つ。ここでは、目的語である部長を立てるために「会う」を「お会い申し上げる」、「やる」を専用の語形である「差し上げる」に語形を変えている。謙譲語Aは主語を下げる役目を持っていたが、この謙譲語@は、主語を上げも下げもせず、目的語を上げる役割を果たしている。

もしも、この文の話者が課長よりもランクが下であり課長に敬意を表したいのであれば、次のようにすれば課長を立てることが出来る。

(22) 課長が部長にお会い申し上げられました

(22)では、「お会いになる」の部分で目的語である部長を上げており、「・・・れる」の部分で主語である課長を上げている。この場合、「お会いになる」は謙譲語@であり、「・・・れる」は尊敬の助動詞である。これらは種類の違う敬語であるので引っ付けることが可能である。

3.3 謙譲語@および謙譲語Aの概念と自動詞および他動詞の関係
それでは「おられる」の場合はどうだろうか?確かに、萩野(2005)や授業で見たようにおられるも種類の違うもの同士がくっついた敬語の形なので容認されそうである。しかし、「おる」を謙譲語Aとして捉えた場合、尊敬語と謙譲語@および謙譲語Aの概念を考慮に入れると「おられる」は怪しい使用法となる。萩野(2005)が提示した(16)の文で考えてみよう。

(16) 先生は昔し、烏を飼つて居(を)られた。(夏目漱石著 『ケーベル先生』より)

(16)の主語は、先生である。これに対し「飼っておられる」と、「おられる」を使って先生を上げようとしている。しかし、「おる」を謙譲語Aとして捉えると大変なこととなる。そもそも「おる」は自動詞であり、対象を取ることができない。そういうわけで、必然的に「おる」は主語しか取らず、目的語を高める謙譲語@扱いは出来ない。ここでの主語は「先生」であるので、謙譲語A「おる」で「先生」をいったん下げている。また「おる」についている「・・・られる」は尊敬の助動詞であり、「おる」でいったん下げておいた先生をまた引き上げてしまっている。これでは、先にも述べたように動作主を下げて再び上げているのでプラスマイナスゼロの状態になり、理にかなわない形になっている。

「いる」はそもそも自動詞であり、目的語を取らない。目的語を上げるという前提を満たすには当然動作の対象(目的語)を取る他動詞でなければならないため、動作の対象を取らない自動詞は謙譲語@になりえないはずである。この点から見ると、主語を下げる謙譲語Aと主語を上げる尊敬語は同時にくっつき得ないはずである。

萩野(2005)の「おられる」理論は、自動詞と他動詞の関係を踏まえずに十把一絡に尊敬語と謙譲語はくっつくことができると言っていたが、謙譲語@と尊敬語の観念そして自動詞と他動詞の基本的な特性を考慮に入れると、その理論は短絡的であることがわかる。

3.4 今の「おる」の意味のありよう
上の私の論考は、あくまでも「おる」を謙譲語Aとして捉えた場合の論考である。先にも述べたように萩野(2005)は、「おる」をあくまでも「いる」のバリエーションと捉え、「謙譲語的に使われる場合があるだけで、いつもそうではない」と主張している。この論が通ると、これまでの議論が意味を成さなくなってしまうので、この「おる」の基本的意味も、もう少しつめて考えたい。

そもそも、萩野(2005)の主張する理論は、あくまでも辞書がベースとなっているものである。それは『岩波古語辞典』への言及を見ても明らかである。また、使用されている例文も時代が古いもののみが言及されており、最近の本の例文が使用されていない。すなわち、比較対象として最近の言語データも提示して「今の『おる』の意味のありよう」が考察されていないのである。これでは昔の「おる」の使い方はわかるが、今の「おる」の実態を考えられていないので、この論拠は不十分である。

3.5 規範文法vs認知言語学
そして、萩野(2005)は辞書を規範として言葉の意味を捉えるべきと主張している。そうでなければ、世代間で言葉の「意味」の捉え方が変わってしまい、コミュニケーションが成立しえなくなるからだと、規範を押し付けた形で認知言語学への批判を展開している。

しかし、この規範文法の理念、「・・・べき」論はその「・・・べき」を立証するための根拠が全くない。むしろ「昔からこうだったのだから、それに無批判に従うべきである」もしくは「日本語とはこういうものなのだから、我々もそれを無批判に受け入れろ」という、年長者の権威主義に乗っかった保守的な単なる「押し付け」である。もちろん、規範というものは必要であることは認めるべきであるが、その「・・・べき」を押し通すにも一定の根拠が必要である。

そして、「変化が起る」ということにも、そこにある一定の理由があるわけで、それが理にかなっていれば許容されるべきである。その理にかなった理由や根拠があるにもかかわらず「昔からの方法でこうあるべきだ」と押し付けるのはナンセンスである。その理由および根拠や事例を蓄積させて一般化させてこそ規則に意味があり、その意味を考えるのが「認知言語学」、ひいては生成文法なども含めた言語学全般の役目の一つである。無批判に変化を受け入れろと主張しているわけではない。規範文法は、事実を一般化させることなく、昔からあるルールを無批判に受け入れ、今の変化を徹底的に否定し、「・・・べき論」を展開している。これではあまりに保守的であり、そこには理にかなわない昔ながらのルールを野放しにしてしまう危険性がある。

萩野(2005)は、認知言語学を家にいる、ゴキブリを自然の変化だと主張し正当化して野放しにしておく「ゴキブリ理論」であると隠喩を使って揶揄したが、こうやって考えていくと規範文法は、そこにあると邪魔な場所にずっと物が置かれているのに、昔からそこにあるからと言って絶対にそれを動かそうとしない「昔ながらの不条理な頑固親父理論」である。

3.6 今後の研究への示唆
少々、議論が横にそれて抽象論と揶揄が過ぎてしまったが、この「おる」の意味はもう少し煮詰めて考える必要がある。今ではコーパスの技術も発達しているので、様々な年代や文脈、更に最近の言語データを集め、「おる」の意味を事実に基づいて一般化し、考え直す必要がある。レポートの範囲を超えるので、そこまではやらないが、これは調査し白黒はっきりさせる価値があると思われる。

「『いる』の尊敬表現は『いらっしゃる』のみである」と言い切った主張は、実際の側面のみを見れば誤りに見えるが、「おられる」という言葉自体のほうも謙譲語と尊敬語の概念を考慮に入れると存在しにくいものである。こう考えると、少なくとも「いらっしゃる」のほうが「おられる」よりも安定した尊敬語の語形だとわかる。
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2010年03月24日

「おられる」は間違った尊敬語の形式か?2

2. 「おられる」の使用の実際
以上が、授業内でなされた解説であったが、この解説に一石を投じるためにここからは具体的な発話例および書き言葉の例を見てみよう。実際の事例を見ていくと、「おられる」が書き言葉や公的な文脈で地域や年齢に関係なく使われていることがわかる。

2.1 実際の発話の例
私のよく使うバスの中で、このような録音のアナウンスが流れる。

(12) 次は西宮名塩です。この駅は、降車専用の駅となっております。お降りになるお客様がおられない場合、通過させていただきますのでご注意ください。

自分と同年代の若者が、「いる」の尊敬語として「おられる」を使っていれば、若者にありがちな、いわゆる「日本語の乱れ」としてしか捉えかねられない。しかし、これは録音で放送されているバスの定型アナウンスである。上の理論に従うと、これではバス会社をあげて尊敬語の使い方を間違えていると考えざるを得なくなってしまう。

ただし、関西圏に住んでいる私の使うバスは当然「いる」を「おる」と捉える地域を走っているので地域性の観点から見ればこの使用は間違いではない。

2.2 書き言葉における例
私の若者以外の敬語で聞いた発話の例は上の1つだけであるが、新書や公文書などの書き言葉の世界の中では「おられる」の使用が見られた。いくつか例を挙げよう。

(13) (夜回り先生が実践していることについて)このことが圧倒的にすごい。つい、氏への言説も控えがちになる。水谷氏のやっておられる行為のモデルを求めるとすれば、キリスト教の歴史における聖人しか見当たらない。(諏訪哲二著 『学校のモンスター』 p.205より)

この『学校のモンスター』を著した諏訪哲二氏の出身地は関東の千葉県生まれで、埼玉県を中心にして教職活動に従事なさっていた方である。しかも、彼は1941年生まれでとても「若者」といえる年齢ではない。つまり、「いる」を「おる」として使う関西圏に住んでいるわけではなく、かつ年齢が高いにもかかわらず、この「おられる」を平然と本の中で使用している。

これだけにとどまらず、宮内庁 (2005)の『皇后陛下お誕生日に際し(平成17年) 宮内記者会の質問に対する文書ご回答』においても「おられる」が使用されている。

(14) 戦没者の両親の世代の方が皆年をとられ,今年8月15日の終戦記念日の式典は,この世代の出席のない初めての式典になったと聞きました。靖国神社や千鳥ヶ淵に詣でる遺族も,一年一年年を加え,兄弟姉妹の世代ですら,もうかなりの高齢に達しておられるのではないでしょうか。
(15) ご一家のご様子についてとともに,皇后さまは皇室の現状とその将来についてどう感じ,どう願っておられるかをお聞かせください。

(14)は、記者の質問に対しての皇后陛下からのやんごとなきご回答で、(15)は記者の質問である。これらは東京に本拠を置く宮内庁の公式サイトからの引用である。当然、やんごとなき方々のお書きになった「公文書」であり、記者側も日本を象徴する一人である皇后陛下に「おられる」を使っているのである。

これら2つの例を取り上げると、「おられる」は関西独自の尊敬語ではなく実は広く使われているのではないかと考えられる。となると、「『いらっしゃる』のみが『いる』の尊敬語である」という論の旗色が悪くなってくる。

2.3 「おられる」を擁護する立場
実際の事例を見ると、「おられる」が案外地域や文脈に関わらず受け入れられているが、「おられる」を全面的に認めている学者がいる。萩野(2005)は規範文法の立場に基づき「おられる」は何の問題もない尊敬語であると指摘している。

まず、「おる」は「謙譲語的に使われる場合のある語」に過ぎないと指摘している(萩野, 2005)。そもそも、「おる」が謙譲語A扱いになったのは『岩波古語辞典』が「おる」は自分の動作に使えば卑下、他人の動作に対し使えば蔑視の意味となると主張して以来だとし、それ以後「おる」を謙譲語として使う辞書や書類が増えたと主張している。しかし、これは単なる「拡大解釈」が広まった結果であり、あくまでも「おる」は「いる」のバリエーションに過ぎないと指摘している(萩野, 2005)。

それを証拠付けるかのように、萩野(2005)は昔ながらの書籍から「おられる」が使用されていることを指摘している。

(16) 先生は昔し、烏を飼つて居(を)られた。(夏目漱石著 『ケーベル先生』より)
(17) あなたの覚えてをられるのはどういふのが一等優れて・・・(折口信夫著 『難波の春』より)
(18) 涙ぐんでをられたこともありましたが(谷崎潤一郎著 『少将滋幹の母』より)
(萩野, 2005)


この観点から見ると、「おる」は地域に関係なくあくまでも「いる」の一つのバリエーションに過ぎず、いつも謙譲語として扱われるわけではないことがわかる。よって、宮内庁の公文書でおられるが使用されていたり、関東出身で年配の諏訪哲二氏が「おられる」を使っていたりしたことにも合点が行く。

このようにして萩野(2005)は、認知言語学を支持する学者達の敬語理論や他の理論を、「言葉の乱れ」を「言葉の変化」と主張して正当化する「ゴキブリ理論」と痛烈に批判し、なおかつ敬語の理論をややこしいものにした元凶であると徹底的に批判し、「おられる」は正しい敬語であると主張している。
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2010年03月23日

「おられる」は間違った尊敬語の形式か?1

去年前期に趣味で受けた「言語生活論」の最終レポートをアップします。長いレポートになってしまったので章ごとに切ってアップします。

レポートテーマ:授業で議論した事項や他の文献で議論されていることを実際の発話データを元にしながら批判的に考察せよ(枚数・フォーマット自由)

「言語生活論」の授業内おいて、敬語と謙譲語の機能と言語形式について考えた。その中で、私は先生に「日常生活の場で、『いる』の尊敬語として『おられる』」がよく使われていることを指摘した。それを受けて、「おる」を「いる」と表現する地域があるにはあるが、基本的に「いる」の尊敬語は「いらっしゃる」であるという結論が提示された。本レポートは、授業で扱われた敬語と謙譲語の概念と実際の発話や本の事例を比較して、「『いる』の尊敬表現は『いらっしゃる』のみである」という主張を批判的に考察する。

1. 授業のおさらい
1.1 尊敬語と謙譲語Aの機能

尊敬語の機能は、「主語(動作主)を高める」ことにある。具体的に例を挙げると(1)のようになる。

(1) (生徒の発話)校長先生が教室にいらっしゃいました

(1)の場合、「来る」動作を行ったのは校長先生である。当然、生徒から見れば校長先生は目上の人間である。よって、校長先生を立てるために「来る」ではなく「いらっしゃる」という言葉を使用している。

尊敬語は主語を高める機能を持つため、一人称に対しての使用と外部の人間に対して身内の人間を高めることは出来ない。

(2)
(a) *私は、大学を去年卒業なさいました
(b) (取引先の相手に対して)*部長は、朝7時にいらっしゃいます

一人称、すなわち自分や身内の人間を動作の主語にする場合は謙譲語Aを使用することになる。謙譲語Aの言語機能は「主語(動作主)を低める」ことにある。上の例を使用するとこのようになる。

(3)
(a) 私は、大学を去年卒業いたしました
(b) 部長は、朝7時に参ります

このように動作主を下げることによって聞き手への敬意を表すのが謙譲語Aの機能である。

1.2 特殊な形を取る語
尊敬語の形式は、助動詞型と構文型に分けられる。助動詞型は「〜られる」、構文型は「お/ご〜になる」、「〜なさる」、「お/ご〜なさる」、「お/ご〜下さる」という形を取る。「お」と「ご」の使い分けは、「お」は基本的に大和言葉につき「ご」は漢語に付く。

(4)
(a) 先生が大臣をお待ちになる
(b) 先生が私達に英語学についてご説明くださった

しかし、尊敬語には英語における過去形の不規則活用のように上の規則に当てはまらない動詞がいくつか存在する。

(5)
(a) 「言う」→「おっしゃる」 先生がそのようにおっしゃいました
(b) 「食べる」→「召し上がる」 先生は昨日、あんみつを召し上がりました

また、「いる」もこの種の不規則活用に該当する言葉である。

(6)
「いる」→「いらっしゃる」 私のゼミの先生は構文論を研究していらっしゃいます

語彙的に対応する専用の語がある場合、必ず専用の語形を使わなければならない。よって、以下のようなものは文法上誤りとなる。

(7)
(a) *校長先生がそのように言われました
(b) *先生は、昨日あんみつをお食べになりました。

「いる」も対応する専用の語が厳密に決められているため、「いらっしゃる」以外の尊敬表現は存在しないことになる。

一方、動作主を下げる謙譲語Aの形式は以下のようなものが授業にて取り上げられていた。

(8)
(a) 「する」→「致す」 昨日、私は夜10時に宿題を致しました
(b) 「言う」→「申す」、「申し上げる」 先生に私の考えを申し上げました

授業資料においては明記されていなかったが、私が質問したときに先生は「いる」の謙譲語Aの形式は「おる」であるとお答えになった。

(9) 生成文法理論については、私は反対の立場を取っております

このように、尊敬語には動詞を規則的に当てはめればいいものと、専用の語形を持つものが存在し、謙譲語Aも一定の語形が存在することが授業で提示された。

1.3 「おられる」は何故尊敬語ではないのか?
上記の理論によれば、「いる」の尊敬語は「いらっしゃる」という専用の語形があるので、その時点で「おられる」はありえないということになる。しかし、それだけではあまりに短絡的なので、ここでは語形と機能の両方の観点についてもう少し細かく「おられる」を考察してみたい。

まず、語形については文法上何の問題もない。「おられる」の語形は、動詞「おる」の未然形に尊敬の助動詞「・・・れる」が付いた形となっている。これは日本語の文法においては理にかなった形である。

(10) 「おる」+「・・・れる」→「おられる」

しかし、問題になるのはその機能である。まず、「おる」は「いる」の謙譲語Aの語形で動作主を下げる機能を持っている。その動作主を下げた状態で、尊敬を表す助動詞「・・・れる」が使用されると、いったん動作主を下げておきながら、また動作主を上げるプラスマイナスゼロの状態になってしまう。つまり、相手を下げたいのか上げたいのかわからない。よって、「おられる」は機能面から見ると存在し得ない言葉となってしまうわけである。

(11) ?/* 私のゼミの先生は構文論を研究しておられます

ただし、西日本では「おる」は「いる」のバリエーションとして捉えられており、謙譲語であると認識されてはおらず、その地域については「おられる」が通用すると、先生は授業の中で指摘されていた。そういうわけで、おそらく先生は授業資料に「おる」をあえて明記されなかったと考えられる。

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2010年03月08日

教材作りと教材使用の創意工夫

大学院での最後の授業になった小学校英語教育論演習の課題レポートを掲載します。

去年も飛び入りの聴講で本講義を受講し、Whole Languageの理論やその実践の一端を学ぶことが出来た。今年の授業では、キャンパスの場所が変わり山の中から都会の真っ只中で授業を受けることになった。環境の変化に伴い、同じ活動をやっても去年とは一味違った学びを得ることが出来たと思う。

教材を作ったり、教材を使用したりすることに際して必要なことは、目的をはっきりさせることがまず必要だと感じた。つまり、何のためにこの教材を使うのか、そのためにはどのような教材が必要なのかということを常に頭の中で考えておく必要があると思う。このことは、小学校だろうと中学校だろうと高校だろうと同じ事で、生徒に「何を伝えたいのか」ということを念頭に置くことが大事である。

今回新たに追加されたのが、写真撮影のアクティビティである。本キャンパスの山の中だと、自然が豊かということで、自然をテーマにした撮影も可能だが、街中にもかなりの素材が隠されていることが今回のアクティビティを通してわかった。

また、写真を撮る際の留意点としては、動作や状態が一目で見てわかるものを撮るように心がけるべきであるということも頭の中に入れて撮影したい。どうも自分は凝り性なところがあって、ついつい関係のない変な方向に力を入れてしまうという悪癖があるので、この点は留意したいところである。

フラッシュカードを使用するということももちろん可能だが、毎回毎回やると生徒側も飽きが来るだろうと思うので、外に出かけたときに授業で使えそうな光景を見つけて、撮影をする機会があったら写真を用意して使用してみたいと思った。

ビデオ作成は去年もやったが、去年は学校紹介という側面が強かった。今回は、劇仕立てのビデオだったり、クイズ形式の劇だったりとバリエーションに富んでいたと思う。クイズ形式のビデオを作成する場合は、部分だけをズームした映像で”What is this?”と尋ねておき、答えを提示するときはあえて単語を言わずに、ズームアウトした映像だけを見せるという映像の作成手法を使用しているグループもあった。この場合、教室内にいる教員が映像のズームアウト時に、答えを英語で提示してあげれば良い。

また、子どもたち側もズームしている最中の映像では何の拡大画像か興味を引き出しグループで話し合わせるなりして考えさせ、ズームアウトして答えがわかっても、今度は「英語で何と言うのだろう?」といった具合に言語への興味を引き出す機会になりそうである。映像で教材を作る場合、さまざまな形の教材が作れるので、かなり奥深い。

教材は特段凝ったものでなくても、身近なものでも十分使用に耐えることができるということを、授業を通して学んできたが、その身近なもののひとつである新聞は非常に使い勝手の良い教材であることもわかった。さらに、オリンピックなどの大きなイベントがあるときの新聞は格好の話題の宝庫であるということこちらが生徒への話題提供のために使用するだけでなく、生徒に新聞の切り抜きを用意させてスピーチをさせる話題の提供もできそうである。小学校〜中学校レベルにおいては、日本語の新聞でも十分に言語材料になることができるし、児童生徒に新聞を読んでもらう機会作りも可能そうである。また、高校レベルともなればJapan Timesなどの英字新聞も活用し、より高度な英文を読ませるということもできそうである。

よく英語の授業で使用されているゲームであるが、この授業では何の考えもなしに安易に使用しないほうがよいということが分かった。まず、Hangman Gameであるが、私はこのゲームを大学3年生でオーストラリアに留学した時まで知らなかった。やはり、首つりの絵を描いていくという行程が教育上よろしくないためだと思うが、授業というのはただ知識を学ぶ場ではなく、同時に生徒指導の場でもあり、道徳を教える時間でもあるということを認識し、それにかなった絵柄を使うなりしなければならないということを再認識した。

また、この授業でゲームが積極的に推奨されていないのは、ゲームをただやって終わってしまうからということが一つにあると感じた。ほかの授業で、ゲームをやるのは生徒に目標表現を使用させたり、Interactionを発生させたりするためだと学んだが、それでも、ゲームという「操作された」環境下での言語使用となってしまうのは否めない。Whole Languageの理論は意味のある環境の中で、実の場を重視しているが、ゲームを使用してしまうと、その目指すところの理念が達成できなくなってしまう。

いずれにせよ、授業の最大の目的は生徒の英語でのコミュニケーション能力を育成することにあるのだから、そのことをよく考えなければならない。それと同時にAuthenticな言語使用を行わせるには、どのようなアクティビティを組めば良いかよく考える必要があると思った。

校種を問わず、授業においては自分の使う教材をよく吟味し、目標に沿って工夫して使用することが非常に大切である。自分は高校の教員を目指しているが、複雑な文法事項を、教科書を中心にして教えていくことになる。今回の授業を通して、身近なものでも教材になるし、教材をうまく活用すればいろいろなことができることを学んだ。教科書を使用したとしても、生徒に飽きさせず、着実に新しい表現を覚えてもらい、コミュニケーション能力の育成を出来るような授業を行えるようになりたいと思う。
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2009年03月29日

『こども輝け、命 4年1組ハッピークラス』を見て

2月の集中講義であった小学校英語教育演習のレポートをブログに掲載します。

『こども輝け、命 4年1組ハッピークラス』を見て最初に感じたことは、自分にもこういう時代があったのだなあということでした。金森先生の指導が行き届いているのか、元気いっぱいだけど学級崩壊を起こすようなこともなく、クラス一丸で頑張っている子どもたちの姿を見て、小学校の先生も楽しそうだなと感じました。

ビデオで印象が深かったパートの一つは、手紙ノートのやり取りの中での命についての授業でした。おばあちゃんが亡くなってしまって、そのことを手紙ノートに書き、クラスで命の大切さを考えているシーンがありましたが、クラスの子がその子に感化されてデザイナーだったお父さんがなくなった女の子が、この手紙ノートをきっかけにして心を開き、命について考えるための良い学びを与えていたと思います。10歳の子どもたちとは言え10年分生きてきてその中には様々な経験を持つ子どもたちが揃っていることを認識しました。

また、このパートにおける子どもの感受性の高さにも驚きました。まだ、真っ白な状態な部分が多いからでしょうか、身近にいた人が亡くなりもう二度と会うことが出来ないという事実が突きつけられたとき、子どもにとってその事実の大きさは非常に大きいのだと思います。

今の世の中、医療の発達などにより人間の寿命は非常に延びています。また、100円もあればコンビニで何かパンなどを買うことが出来るわけで餓死するということも、極端な状況でなければありません。だから、今の世の中命の大切さを知るというのは非常に難しくなってきていると思います。ある調査で、小学生の子どもの6割が死後生き返ることが出来ると答えたとのことで、世間がにぎわったことがありました。個人的には一緒に騒ぐどころか、「死んだ人間は蘇らない」ことや、「人生というのは1回限りである」ということをこれから学んでいくわけで、我々が教えていかなければならないことであると考えました。金森先生の実践はその具体例の一つだと思います。(そういえば、金森先生が「人生はたったの1回です」と何度か番組中に言っていたと思います。先生の大事にしたいことがよくわかる台詞だと思います)

もう一つ、印象に残ったことは生徒の一人がいかだ作り中におしゃべりをして、先生に叱られていたシーンです。先生はその子に、いかだに乗らないように言いましたが、それを受けて同じグループの子どもが先生に、「それはおかしい」と言い出したシーンがありました。紆余曲折が多少あったものの、先生はその生徒を許し最終的にはいかだに乗る活動を一緒にしていました。
後で、金森先生はその子のやったことは「大人でも難しいことをやった」と評していたのが印象的でした。子どもでも、仲間を思う気持ち、おかしいことをおかしいという力は確実にはぐくむことが出来るし、そういった少しの勇気がクラス全体に伝わるということがわかりました。子どもと言っても侮ってはいけないなと感じた次第です。

最後に一番印象的に残ったシーンは、クラスで互いの悪口を言い合うことがはやったことです。金森先生は事態を重く見ており、道徳の授業で人を軽蔑することはいけないと児童たちと考えていました。児童たちはそれに賛同したのですが、金森先生はそういう児童たちに「きれいごとが過ぎる。何故、自分には関係ないと考えるのか。」と叱咤しました。ここに金森先生の手腕の高さを見出しました。

人間は誰しもが、善の心と悪の心を持っています。また、軽蔑していなくたって利害もあるだろうし、個人的に相性が良い悪いもあると思います。だから毒づくことも大いにあります。その中で、「自分は悪口を言っていない」と言い張るのは、偽善であると指摘しているのだと思います。金森先生のメッセージは「自分の弱さと向き合いなさい」ということ。そして、自分がされて嫌なのに何故相手にそれをやるのか問いかけていたと思います。

金森先生は、叱咤する中で「お互いに軽蔑の心を持っていては、友達でも仲間でもない」と言い張っていました。大人の社会でも、互いに軽蔑する心があります。それは普段友達と言い合っている仲でさえもです。そうしたことはいけないと強く児童たちに訴えているところが良かったと思います。

この映像資料は2002年が舞台のようですが、その年からもはや7年経っているわけです。ということは、当時10歳だった児童たちは高校生にすでになっているわけです。この子どもたちが、どのような大人になっていくのかが楽しみに感じました。彼ら彼女らのその後を知るすべはありませんが、少なくとも、4年1組での経験が生きていることを願いたいと思います。
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2009年02月17日

語彙項目の意味素性論とプロトタイプ論について

後期の授業で履修した科目である「心理言語学」のレポートをブログに掲載します。

意味素性論を概説せよ
意味素性とは、語の意味を構成している独立的な意味単位のことである。boyとgirlで具体例を挙げると

(1)
boy: [+animate], [+human], [+young], [+male]
girl: [+animate], [+human], [+young], [-male]

boyとgirlは、生きており(+animate)、人間であり(+human)そして若い[+young]。しかし、boyが男[+male]であるのに対し、girlは男でない[-male]。このように、意味素性論は語の意味は独立した意味単位(意味素性)が集束し、成り立っていると考える。

意味素性論の限界を指摘せよ
しかし、この考え方には限界がある。ヴィトゲンシュタインは、”game”を例にして定義的素性(ある概念に所属する全ての語彙項目が共通的に持つ素性)の不確定性を指摘している。というのは、card game, ball game, board-game, Olympic-gameは全てgameという概念に含まれているにも関わらず、それぞれの語に共通項がない。
また、parentsとchildの関係を考えてみると、こちらにはparentが上でchildが下という立場の差が考えられる。しかし、意味素性論では方向性の概念が考慮に入っていないために、必要な素性の概念の数が足りていない。このように、意味素性論で語彙項目の意味を説明しようとすると、限界にぶち当たる。

意味素性論の限界を踏まえてプロトタイプ理論を説明せよ
プロトタイプとは、「ある集合の成員の典型例」のことである。たとえば、日本語において鳥という概念のプロトタイプは「スズメ」である。スズメは翼があり、飛ぶことが出来、小さい・・・などといった鳥の持つ意味素性を典型的に満たしている。この概念を利用することにより、ある概念を典型的に満たすもの(プロトタイプ)と、典型的に満たさないがその成員に含まれる周辺的なもの(鳥を例に挙げるならばペンギンやダチョウ)を階層的に説明することが出来るようになり、意味素性論の問題は解消される。
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2009年02月16日

生得的言語習得観と用法依存モデルについて

後期に履修した科目である「心理言語学」のレポートをブログに掲載します。

チョムスキーの生得的言語習得観の特徴を概観せよ
チョムスキーは、人間の言語習得を説明するためにはそのための特別な生得的能力を仮定しなければならないと考えた。人間は生まれながらにして普遍文法(UG)が備わっており、それを基にして、外部の入力を受けてパラメーターを設定し、文法規則を習得するという立場をとっている。この普遍文法は、一般的認知能力とは独立したモジュールであり、人間ならば誰しもが母語を身に付けることが出来るとしている。

用法依存モデルの前提を説明せよ
チョムスキーのアンチテーゼとして提唱された認知言語学においては、言語習得の説明を用法依存で説明している。チョムスキーは言語習得の普遍性を解決するために一般的学習能力とは普遍文法を仮定したのに対して、こちらは言語習得の普遍性を一般的学習能力に求めている。言語の習得は、一般的な認知能力である意図の読み取りや、パターン発見を使いながらされると考えているのである。つまり、チョムスキーと違って言語習得を先天的能力に依存するものと捉えてはいない。

用法依存モデルによる言語習得の基本的プロセスを説明せよ
言語習得の学習プロセスは、「個別事例を覚える」→「個別事例を集めて共通性を感知し、ローカルルールを作る」→「更に一般化を進めてグローバルルールを作る」と大まかに分けることが出来る。
動詞goの過去形の習得を例に挙げて考えてみよう。まず、子どもは個別事例としてwentを最初に覚える。しかし、学習が進むに連れて、他の動詞の事例に当たっていくと、動詞の過去形を作るには形態素-edをつければよいというローカルルールに気づく。すると、一時的にgoedといった具合にそのローカルルールを過剰一般化する。しかし、再び事例を集めていくうちに、動詞の過去形には規則的に変化するものと不規則に変化するものがあると気づくようになりグローバルルールに達する。このようにして、個別事例を集めていき、そこから一定のパターンを発見していき文法を子どもは習得する。
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2009年01月24日

認知言語学と英語教育 〜構文文法の見地から〜 2

2. 構文文法
2.1 認知言語学における「構文」
構文とは、一般的には”there is…”や”it is … for… to do”などの「ある一定の文の型を学習や記述の便宜からリスト化したもの」と考えられている。しかし、認知言語学における「構文」は、一般的に言われるそれとは意味が異なる。認知言語学で構文という用語を使う場合、このような定義となる。

構文(Construction)・・・要素が結びつくパターンが記号としてスキーマになっているもの

生成文法では、文とは決定詞や名詞が組み合わさって名詞句を作り、それが更に動詞句と組み合わさって文を作る・・・といった構成素の積算の結果と考えられている。(合成性の原理

しかし、認知言語学では合成性の原理に基づいて表現の意味を考えることは行われない。その代わりに、ある決められた要素のまとまり(パターン)ごとに、「意味」があると考える。この発想は、ゲシュタルト心理学の考え方から来ている。「ゲシュタルト」とは、全体とは部分の積算ではなく、まず全体がありそして部分があるという考え方である。構文の発想は人間が知覚を行う上では、部分よりも全体が大事なのだというゲシュタルト心理学の考え方を言語にも適用しているわけである(吉村, 2003)。

構文という単位を認めるという主張の根拠として、Goldberg (1995)はこのような実験を行った。

実験手法: 架空の動詞”topmase”を含んだ以下の文を言語学の知識を持たない英語の母語話者10人に提示し、どういう意味なのか解釈させた。

(6) She topmased him something.

結果:被験者である英語母語話者10人中6人が、「彼女は、”topmase”という手段もしくは容態で、彼に何かを与えた」と解釈しようと試みた。

この結果から言えることは、被験者である英語母語話者は未知の単語のtopmaseの意味を文の形全体から推測し、解釈しようとしたことになる。この文は、”S V IO DO”の統語を取っている文であるが、この文パターンのとき、「SガIOニDOヲ 与える」、つまり「所有の移動」という意味を持つということになる。このような、意味を持った一定の言語要素のまとまりを『構文』と呼ぶわけである。

ただし、同じ認知言語学の枠組みの中でも、この単位を積極的に認める立場(Goldberg, 1995など)と認めない立場(Lagnecker, 1995など)があり、意見が分かれている(伊藤, 2003)。また、トマセロ (2008)は、構文という単位の意義を認めながら、「構文は規則ではない」と主張している。なぜなら、構文という単位は、実際の発話用法をパターン化したもの以外の何者でもないからである。このように、構文と一口に言っても一枚岩ではない。

2.2 代表的な構文
では、具体的にどのような構文があるのか、Goldberg (1995)で議論されているものを代表例として挙げる。

(7) 二重目的語構文 (Ditransitive Construction)
Subj V Obj Obj2 (X CAUSES Y to RECEIVE Z; Xが、YがZを受け取る原因となった)
a. Pat faxed Bill the letter. (PatがBillに手紙を受け取る原因となっている)

これは、具体物のやり取りだけでなく、音声などの抽象的なもののやり取りに対しても有効。

b. John tells him the story.(the storyという「音声」のやり取り)

(8) 使役移動構文 (Caused-Motion Construction)Subj V Obj Obl (X CAUSES Y to MOVE Z; Xは、YがZへ移動する原因となる)
a. Pat sneezed the napkin off the table. (Patが、ナフキンがテーブルから離れた原因となっている。

二重目的語構文同様、抽象的なものの移動に対しても有効

b. John tells the story to him.

(9) 移動構文 (Intrans. Motion Construction)
Subj V Obl (X MOVES Y; XはYへ移動する)
The fly buzzed into the room. (ハエが部屋へ移動した)

(10) 結果構文 (Resultative Construction)
Subj V Obj Xcomp (X CAUSES Y to BECOME Z; Xは、YがZとなる原因となる)
She kissed him unconscious. (彼女がキスしたことで彼が気絶した状態になった=彼女が、彼が気絶した原因)

(11) 動能構文 (Conative Construction)
Sub V Oblat (X DIRECTS ACTION at Y; Xは、Yに向かって行為を行う)
Sam kicked at Bill. (SamはBillを蹴ろうとした[実際には当たっていない]=SamはBillに向かって蹴る行為を行った)

cf. Sam kicked Bill. (蹴りが実際に当たっている)

Obl=方向句(Directional Phrase)

2.3 構文という単位を適用することの利点
(12) John sneezed napkin off the table.(ジョーンは、くしゃみでナプキンをテーブルから落とした
(13) John squeezed the lemon into the bowl.(ジョーンはレモンを絞ってボールに入れた
(14) The train squeaked into the station.(その列車はキーキー音を立てて駅に入った
(15) John promised Mary a car. (ジョーンはメアリーに車[をあげること]を約束した)

下線部の動詞単体には、もともとの語の意味に「移動」の概念がない。それにもかかわらず、上記の例文全てに「移動」の意味が想起されている。このように、使用されている文において解釈が異なる場合、従来ではその動詞は多義であるとしてきた(伊藤, 2003)。この考え方だとある動詞Xが使われている文A、B、Cが異なる解釈を持つとすると、動詞Xは、XA, XB, XCという意味を持つとされる。つまり、1つの動詞が意味を複数持つこととなり、更に文脈次第でその意味が無数に増えていってしまう(Goldberg, 1995; 伊藤, 2003)。

構文文法の「一定の言語的まとまりが意味を持っている」という発想を適用し、動詞の多義性の問題を語のまとまり(構文)に求めることで、動詞1つが極端に多くの意味を持つことが回避できる(Goldberg, 1995; 伊藤, 2003)。これが、構文文法の利点である。

2.4 構文の意味と動詞の意味の関係
早瀬 (2002)は、構文の意味と動詞の意味の観点からGoldberg (1995)の構文文法の特徴を以下のようにまとめている (Cited in伊藤, 2003)。

Goldberg (1995)の特徴 (早瀬, 2002)

1. 構文は動詞とは独立した意味を持つ
2. 構文の持つ骨格的かつ抽象的な意味を、動詞の意味によって具現化する
3. 動詞の意味と構文の意味とが融合されて、表現全体としての意味が得られる
4. 動詞の意味とはフレーム意味論的な豊かな情報を含んだ単一の意味である


伊藤 (2003)より

(16) John went to school. (構文の意味:移動 動詞の意味:移動)

(16)で使われている構文は、移動構文である。(9)であげたように移動構文は、「XがYへ移動する」という意味である。構文が持つ、移動の概念を動詞”go”という言語形式で具現化する。このgoも移動を表す典型的な動詞なので、構文の意味と見事に一致する。よって文全体の意味も、「学校へ行きました」という移動の意味が得られる。構文と動詞がそれぞれ独立して意味を持っているが、動詞の意味が構文の意味を具現化しているのである
この見地から考えると、次の例文は物の移動と解釈することは出来ない。

(17) *The bird chirped out of the cage. (構文の意味:移動 動詞の意味:音を出す)
(18) *The dog barked into the room. (同上)

上記の例文は、動詞の意味と構文の意味がマッチしていないため(移動したという意味では)容認されない

しかし、上記3.のような特徴があるため、構文の意味と動詞の意味が一致していない場合でも、そこに構文の意味との因果関係があれば容認される。

(19) The truck rumbled down the street. (構文の意味:移動 動詞の意味:音を出す←移動の結果
(20) The elevator creaked up 3 floors. (構文の意味:移動 動詞の意味:音を出す←移動の結果
(21) The boat sailed into the cave. (構文の意味:移動 動詞の意味:帆をあげる←移動の原因
(22) *The boat burned into the cave. (構文の意味:移動 動詞の意味:燃える)

(19)と(20)の場合、移動の結果音が出たという意味であるので因果関係が成立している。また(21)の場合も、帆をあげることでboatが移動することが出来る。つまり、このsailという行為は移動の原因である。一方で、(22)の場合burnという動作は、移動の結果にも原因にもならないので非文となる。

このように構文と動詞の意味が一致しない場合でも、因果関係があれば構文が意味を補うわけである。

3. 構文文法の見地を利用した説明
3.1 二重目的語構文(SVOO)と使役移動構文(SVO to O)の違いの説明(自分の実践例)
塾講師をしていて、実際に生徒から質問された文法項目の一つが、「SVOOとSVO to O (SVOM)の意味の違い」である。自分も含めて、これらは同じ意味だと教わったが、構文文法の見地ではその考え方は誤りである。以下に自分が行った説明を紹介する。

(23)
a. *John sent America a letter. (S V O1 O2)
b. John sent a letter to America. (S V O M)

(23)の2つの文を提示し、どちらが正しいか少しだけ考えさせた上で、(23a)は文法的に正しくないということを教えた。それは、SVOOの文型(二重目的語構文)は所有の移動を意味するからである。つまり、SVO1O2の文型を取らせる場合はO1に当たるものがO2を受け取り、それを受け取った(所有した)と認識していなければならない。Americaは、意識を持たない物である。よって、所有を認識するものと捉えることは出来ない。だから、この場合所有の認識が生まれないため(23a)は文法的に正しくない。

一方、SVO to Oの形をとる文型(使役移動構文)は単なる物の移動を表す。この構文の意味を考慮に入れてこの(23b)を解釈すると、「Johnが手紙に『送る』という形で力を加えて手紙をアメリカに移動させた」、つまり「ジョーンはアメリカに手紙を送った」という意味になる。

言語学の用語を使わずにあくまで授業で使った用語で、上記のようにSVOOとSVOMの違いを教えたら、その生徒は納得してくれた。英語学の勉強をしていた意義を大変感じた瞬間だった。

3.2 SVOOを取れる動詞と取れない動詞の説明
高校で二重目的語を教えるときに予想される質問の一つが、「tellは二重目的語を使えるのに、sayは何故駄目なのか」ということだろう。

(23)
a. *Mary says John the story.
b. Mary says the story to John.

(24)
a. Mary tells John the story.
b. Mary tells the story to John.

これも構文文法の発想を使えば簡単に説明することが出来る。ヒントは両者の動詞の意味の違いである。

(25) sayとtellの違い
say: 口で音を出すだけ→聞き手がいなくても動作を起こせるので「聞き手」の存在が意味にない
tell: コミュニケーションが成立している→聞き手が必要

sayとtellはどちらも日本語で考えると「言う」であるが、同じ「言う」でもsayは「口で音を出しているだけ」、tellは「誰かとコミュニケーションをとっている」という意味の違いがある。2.4で見たように、動詞の意味と構文の意味を一致させなければならないならない。二重目的語構文は、所有の移動の意味がある。ここでは、音という抽象的なものであるが、この構文を使うには聞き手側がその音を受け取ったという認識が必要である。

sayは、聞き手側が認識していなくても動作として成立する。よって、聞き手側の認識が動詞の意味にはない。だからsayは二重目的語構文の意味とマッチできないので、その構文の動詞として採用されない。

また、聞き手を必要とする同じtellを使った文でも構文が違えば意味にわずかな差があるため、環境次第で容認できるかどうかが変わる。その例を次に挙げよう。

(26)
a. *Mary told John the story, but he was not listening. (聞き手側がstoryを認識しているのでアウト)
b. Mary told the story to John, but he was not listening.(聞き手側がstoryを認識しているとは限らないのでOK)

(26a)では、主節で二重目的語構文を使用したためstoryの受信の意味が成立してしまっている。だから、後になって聞いていなかったと訂正を行うことが出来ない。一方、(26b)では単なる物の移動の意味の使役移動構文が使われているので、主節で受信の意味が成立しているとは限らない。よって、「聞いていなかった」と修正可能なのである。このように微細な違いではあるが、文を書くときに少々気をつけなければならない。

このように、言語学の知識を多少持ち合わせていれば、学校文法での素朴な疑問もすぐに解消させることが出来る。また、より正確に文を書いたり言ったりすることが可能になり、ネイティブスピーカーの言語感覚を知り、それに近づくことが出来る。このように、ちょっとしたスパイスとして言語学を知っていれば、英語の直観を養うことが可能となるのである。

4. まとめ
4.1 認知言語学と構文論のまとめ
本発表では、認知言語学の言語観にふれて、その文法観の一つである「構文文法」を概観した。その結果、単語だけでなく、語の組み合わせ方のパターン(構文)自体にも意味があるということがわかった。

・認知言語学の言語観→用法基盤の言語観。一般認知能力を通して事物を経験し、一般化してスキーマを作り、そのスキーマに具体物を当てはめて世界を分節する

・構文文法の文法観→文とは構成素の意味の積算の結果ではなく、ある一定の要素のまとまり(構文)もスキーマを持っている。構文の意味と動詞の意味が相互に関わりあいながら文を作り出す。

・SVOO(二重目的語構文)とSVOM(使役移動構文)の意味の違いのまとめ
3.で具体例を挙げて、二重目的語構文と使役移動構文の意味の違いを考え、実際に生徒に教えた際どのように生かしたか一例を紹介した。尚、双方の構文の意味をスキーマ化して図示すると次のようになる。

(27) 二重目的語構文(α)と使役移動構文(β)のスキーマ

二重目的語構文と使役移動構文のスキーマ

使役移動構文[NP1 V NP3 Obl NP2]NP3の領域間の移動。NP2がNP3を受け取ったと認識しているとは限らない。(物の領域間の移動)

二重目的語構文[NP1 V NP2 NP3]間接目的語に当たる名詞句(NP2)が直接目的語に当たる名詞句(NP3)を受け取ったと認識している。(所有の移動)

4.2 教師にとっての言語学
学校文法の枠組みだけでは説明しきれていない素朴な疑問を解決するための一つの「視点」。難しい議論が出来なくても、ちょっとしたことを知っているだけで、生徒への説明をするための幅が広がる。

4.3 学び続けるということ
本授業の先生が、初回に「教師は常に学び続ける姿勢を持つ必要がある」とおっしゃっていたが、それに関連して自分が考えたことを述べる。

英語学を「山を見る」メタファーを使って説明すると、このように捉えることができると思う。

英語を捉えるということ

我々は、英語という巨大なつかみどころの難しい抽象的な山を、ある一つの視点から眺めている。たとえば、教師だったら「学校文法」という視点、言語の習得についてUGがあると支持するならば「生成文法」という視点、一般認知能力で解決できると考えるならば「認知言語学」という視点・・・といった具合に、言語という現象をある一つの視点から切り出し、それを記述して、なぜそうなっているかを説明しようとしている。それが「理論」である。

しかし、視点によって山の形は様々なものに変化する。それと同じように、理論というものが一つの視点から現象を切り出して描写し説明したものならば、必ず見落とされている点が存在する。言語学の話題で言えば、生成文法ではメタファーの説明は出来ないし、認知言語学の構文の説明の仕方では言語の深層構造が説明できない。だから、山の全体像を捉えるには多角的な視野にたって山を記述し、それらを総括して見る必要がある

英語、ひいては言葉というものは学者でさえも未だに全体像がつかめず、様々な議論がなされている。先生のおっしゃった「学び続ける」ということへの自分なりの考えは、「山の全体像を出来るだけ正確に把握しようという態度をもち、実際にそれを実践すること」とである。

教員の卵として、英語だけでなく、学習、教育や人間性といった山に対しても同様のことを行うようにしていきたいと考える。そのために、色々な人の話を聴いて、その人の視点からものを眺めたり、本を読んだり、現場に出て実践したり、時には自分の視点を提示し議論したりして教育や言葉といった様々な山の全体像をつかもうとすることをし続けたいと思う。これが、自分の教師の卵としての矜持である。

参考文献
伊藤健人 (2003) 「動詞の意味と構文の意味 -「出る」の多義性に関する構文的アプローチ‐」 『明海大日本語第8号』
児玉徳美 (2003) 「意味と形式」 『国際言語文化研究所紀要』14巻1号
早瀬尚子 (2002) 「構文解析の中核としての動詞−構文理論から見た動詞」『言語』Vol.31, No12
マイケル=トマセロ (2008) 『言葉をつくる 言語習得の認知言語学的アプローチ』 慶応義塾大学出版会
吉村公宏 (2004) 『はじめての認知言語学』 研究社
Goldberg, A. E. (1995) Construction Grammar Approach to Argument Structure. Chicago: The University of Chicago Press
Langacker, R. W. (1987) Foundations of Cognitive Grammar Volume1 Theoretical Prerequisites. California: Stanford University Press.
Langacker, R. W. (1990) Concept, Image, and Symbol the Cognitive Basis of Grammar. New York: Mouton de Gruyter
Tyler, A. and Evans, E. (2003) The Semantics of English Prepositions. New York: Mouton de Gruyter
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2009年01月23日

認知言語学と英語教育 〜構文文法の見地から〜 1

大学院の授業で行った発表をアップします。長いので2つに分けます。

学部と本大学院の授業を通して、英語学を学んできた。それを通して、言語というものの見地は様々なものがあり、いろいろな議論がされていることがわかった。しかし、生成文法の理論や認知言語学の理論が教師にとってどのように役立つのか、個人的にわからない部分がまだ多い。そこで、本発表では認知言語学の理論を生成文法との違いにふれながら、とりわけ「構文文法(Construction Grammar)」(Goldberg, 1995)に焦点を当て、生徒に文法を教える際に、どのように役立ち応用可能か一考する。

1. 認知言語学とは
1.1 生成文法との違い
認知言語学の言語観は、Chomskyの提唱する生成文法のそれと大きく異なる。ここでは、認知言語学と生成文法の言語観の違いを概説する。

1.1.1 UGかUBか
Chomskyの生成文法理論 (Generative Grammar)の枠組みでは、人には誰しも一般的学習能力とは別に普遍文法(Universal Grammar; UG)が先天的に脳の中に備わっており、それを元にしてパラメータを設定し個々の個別言語を習得するとされている。また、その言語習得モデルであるUGを記述しようということも目標としている。

それに対を成す形で提唱されている言語理論が、認知言語学(Cognitive Linguistics)である。この枠組みは、人間の言語の習得を認知に関わる様々な能力と、それを元にした概念化に基盤を置いた言語学の考え方である(吉村, 2003)。

生成文法において、言語習得の普遍性を一般認知能力とは独立したものと位置づけたUGに置いたのに対して、認知言語学においては用法基盤(Usage Based; UB)の立場をとっている。つまり、言語習得の普遍性を独立したモジュールを設定せずに、一般的学習能力で説明しようとしているのである(吉村, 2003)。

1.1.2分析の出発点 −統語構造が先か、意味表現が先か−認知言語学と生成文法の大きな違いは、言語の分析の起点が違うこともあげられる(児玉, 2003)。

(1) 分析の出発点(児玉, 2003)
a. 統語構造→意味表現(Chomskyの理論)
b. 意味表現→統語構造(生成意味論、認知言語学)


生成文法の分析の出発点は(1a)の立場をとる。この立場は、統語論は意味論に優先すると考える。つまり、文の形が先に規定されなければ意味表現の規定は出来ないという立場をとっている。その根拠は以下のとおり。

(2)
a. Cleopatra gave the boy to the slave.(クレオパトラはその少年をその奴隷にあげた)
b. The boy gave Cleopatra to the slave.(その少年はクレオパトラをその奴隷にあげた)
c. The slave gave Cleopatra to the boy.(その奴隷はクレオパトラをその少年にあげた)

以上の文から見ればわかるように、語順が変われば奴隷・クレオパトラ・少年の受益関係と移動関係に変化が見られる。つまり、語順を最初に規定できなければ意味を固定化することはできないのである。このように、生成文法の枠組みにおいては、統語論が自立的なもので、意味論は解釈的で統語論のアウトプットから意味分析が始まる(児玉, 2003)。
一方、認知言語学が分析の出発点とするのは(1b)の立場である。意味表現を分析の起点にする根拠は、児玉 (2003)によると、そもそも言語が人間の伝えたい思い(意味)をあらわすものとすれば、究極的には形式は意味に動機付けられるはずと考えられるからである。つまり、意味(言いたいこと)が先になければ、言葉は存在し得ないと考えているわけである。

かといって、意味表現が常に統語構造に優先すると全面的に考えられているわけではない。(1b)の立場は、意味表現にもある程度の自立性を認めて、意味論と統語論が相互に影響しあうという考え方をとっている(児玉, 2003)。このように、分析手法一つをとっても大きく二つの立場があり、どちらが正しいのか一概には言えない。

この「用法基盤の言語観」と「意味を大切にする」という生成文法との前提条件の違いを考慮に入れて、議論を進める。

1.2 認知言語学における「意味」
認知言語学において、意味とは概念(イメージ)であると考える心理主義的意味論の立場を取っている(吉村, 2003)。人間が世界を捉えるとき、そのままの状態で客観世界を捉えることはしていないし、不可能である。その例として、次の日本文を考えてみよう。

(3) 新幹線の開通により、東京と大阪の距離が近くなった。

(3)は正しい文であるが、現実の世界では東京と大阪の物理的距離は近くなっていない。ただ、速く東京と大阪に行けるようになったというだけである。しかし、心の中では「新幹線の開通で東京と大阪に速く行きやすくなった」という事態を捉えなおし、それを「大阪と東京の距離が短くなった」、「両地点の距離が近くなった」ように感じている。そのプロセスを経て、(3)の言語形式でその事態を言語表現化しているのである。

このように、人間は五感を統合的に使用し事態を捉え、その事態を一度心の中で捉えなおし、再構成して理解する。このような事態の捉え方、判断、記憶を含んだ「脳内で行われる情報処理活動の全て」を、認知と呼ぶわけである(吉村, 2003)。

この見地から概念とはある物事や出来事を知覚、認識したときに心の中で行われる情報処理(認知)の結果、心の中に浮かんでくるものと考えることが出来る。それを記号化したものが、言語なのである(吉村, 2003)。

1.3 スキーマ
意味とは概念であることがわかったが、具体的に人間はどのように物事を概念化するかを「スキーマ」という概念を導入し説明する。

スキーマ・・・日常の心的経験が繰り返された結果生まれる普遍性の高い知識の抽象的な型(吉村, 2003)

人間は生きていく中で個々の事例を経験する。それを一つ一つ個別に捉えるのではなく、個々の事例を集合させ共通点を見つけてまとめ、個々の微妙な差を捨て去って一種の「型」を作る。つまり、個々の事例を集めて、帰納的に一般化する。その一般化された結果生まれた抽象的な型をスキーマと呼ぶ(吉村, 2003)。

(4) レストランでの行動のスキーマ
店のドアを開ける→席につく→メニューを選ぶ→店の人を呼ぶ→メニューを注文する→料理が来る→食べる・・・

レストランを例にすると、スキーマとは上記のような行動パターンである。レストランでやることを何度も経験し、その経験を元に一連の行動をパターン化し、行動の「型」を作る。レストランとはこういうことをする場所という型を作るにより、行ったことのないレストランに行ったとしても、またレストラン以外の食事をするための場所でも、迷うことなく何をすべきかわかるわけである。人間が経験していないものに対して対応できるのは、このようにスキーマを経験から作り、事物をそれに当てはめて行動しているからである

言葉についても同じ考え方が適応できる。前置詞のoverを例に挙げてみると・・・。

(5) overのスキーマ (Tyler and Evans, 2003)

a. 例1 b. 例2 …etc

↓スキーマ化↓

c. overのスキーマ

overは二つの事物の位置関係の概念を表す語であるが、それを具体物で図示すると(5a)や(5b)のようになる。上の絵のような位置関係にあるものを多数集めていき、個々の具体物の細かい特徴を切り捨て、より普遍的な型を作る。(スキーマ化)そうすると、(5c)のような型が完成する。これをスキーマと呼ぶ。(5c)のような位置関係になっている具体物に対して、overという形式を使用して描写しているわけである。

このように、我々は経験を積み重ねることで様々な事物に対してスキーマを作り、そのスキーマを対象物に投影し事例化する。このようにして我々は、スキーマを使い世界に意味を与えて分節化(segment)しているのである(吉村, 2003)。
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2008年12月23日

定冠詞の意味論

この間の授業で発表した内容をブログに掲載します。

1. 中学校の教科書におけるtheの扱い
・各教科書の定冠詞の初出の文
(1) I have a Judo uniform. This is the uniform. “New Crown” (1997)より

(2) I play the drums every day. “New Horizon” (1997)より

(3) I play the guitar. “Total English” (2004)より

・奥付の文法説明と単語リストの説明
前に出てきた語を繰り返して言うときや、話しているもの同士の間ですでにわかっているものについていうときは、aやanではなくtheを使います。
(New Crown ,1997; 2004)

the: その〜、例の〜(普通、訳さない)
1. すでに話の中で出てきたものについて I have a Judo uniform. This is the uniform.
2. 用具・楽器などにつけて I play the guitar.
3. 前後の関係で何を指しているのか良くわかっているものにつけて You see the girl over there.
4. 固有名詞につけて the White Prince
5. 習慣的に使う表現の中で It’s nine o’clock in the morning.
6. 順序をあらわす言葉の前につけて This is the first day of school.

New Crown (1997)より

aと並んで使用方法の難しい定冠詞の中学校での説明。どの教科書も同じように言及していた。色々な条件があるので、学習者にとっては、とっつきにくそうな印象を与える。(教師にとっても難しいけど・・・)ただ、教科書的には中学生にはこの程度の使い方は覚えてほしいようである。

・『高校総合英語 Forest』におけるtheの基本的な説明
手持ちの教科書では取り立てての定冠詞の説明を見つけることが出来なかったので、『高校総合英語 Forest』の基本説明を引用する。

the・・・「その〜」(一つのものに特定できるものに付く)
この世に1つしかないものにつく

(4) the sun, the earthなど

話の中ですでに出てきたもの(旧情報)に付く
(5) A: This is my book. B: The book looks difficult.

一見すると、上手くtheの基本的な機能を説明しているが、世の中には1つに絞れるとは限らない上に、旧情報でもないのにtheが付く場合がある。

(6) She dressed her baby. The clothes were made of pink wool. (clothesは新情報なのにtheがついている)

本発表は、theの使用条件を指示の構造や間接照応の概念を導入しながら認知言語学的見地から見直し、theの機能の再整理を試みる。また、中学校の教科書ではtheがどのような機能を果たしているのか量的に検証し、今後の定冠詞指導のあり方を考える。

2. theが付く条件と指示の参照先
英語において、トークン(ある種類・集合から取り出した個別の要素)を示す場合は、aもしくはtheを付ける。ここで、ある指示されるもの(referent)と話者と聞き手の持っている知識と情報のあり方で定冠詞と不定冠詞の付け方が決まる。

2.1 theが名詞に付く条件(石田, 2002)
(i) 話者は指示する対象をある集合に属する特定の物と信じ、その環境で一つのものであると確認される(uniquely identified)信じている。(対象物に唯一性があると信じている)

(ii) 話者は、指示する対象が聞き手にとってもその環境で一つのものとして確認できると信じている。名詞の意味内容、文脈情報、知覚可能な状況、記憶、世界についての知識などから、話し手は聞き手もその示すものを一つに絞ることが出来る信じている。(対象物について、互いに既知性<familiarityもしくはknownessとも言う>があると信じている)

(下線部注:『信じている』と表記したが、これはあくまで話者の判断であるから。実際は聞き手側が忘れていたり、知らなかったりすることもありえる。)

2.2 指示の参照先
話し手は自らの知識や状況や前後の文脈を参照し問題となっている名詞に対してfamiliarityやuniquenessを見出し、theを使用する。このよりどころとなるのが指示であるが、Halliday and Hasan (1976)は指示の構造を以下のように定義している。

指示の参照先

Halliday and Hasan (1976)

外界照応(endophora)とは、名詞によって指示されたある事物が外部世界のある場面に存在することを表す。

(7) (目の前にある花を指して) Look at the flower.

外界照応は一義的に決定されるものではない。というのは、外界照応は眼前の場面を指すのみだけでなく、人類全体の持っている普遍的知識や、特定の共同体が共有している一般的知識や、ある場面に当てはまる個人的・背景的知識も、よりどころとなるからである(Leech, 1981)。

(8) The moon goes around the earth. (人類全体の持っている普遍的知識)
(9) Our house is opposite the church. (特定の共同体が共有している一般的知識)
(10) Don’t forget to turn off the gas after half an hour. (ある場面に当てはまる個人的・背景的知識)

一方、テキスト内照応は問題となっている名詞がテキスト(もしくは談話)という言語によって表現された文の集まりの中に含まれていることを意味する。テキスト内照応はさらに前方照応後方照応に分けられる。
前方照応(anaphora)は、先行するテキスト(談話)の中に同じ名詞が既出となっている場合を言う。

(11) I have just bought a new shirt and some new shoes. The shirt was quite expensive, but the shoes weren’t.

一方、後方照応(cataphora)後続するテキストの中に現れた構成要素を事前に受けているようなケースを指す。

(12) My office is the top of the building. (後続のof the buildingがtopを一つに絞っている)

このほかにも、序数や最上級などの唯一的に同定しやすい形容詞が伴う場合も後方照応に分類される。

(13) The Indians speak the same language.
(14) This is the first time I have been to Australia.
(15) He is the richest man in that town.

このように、後方照応は名詞が何らかの語や句、節の修飾を形容詞的に受けるときに生じる。

これらを考慮に入れて、以下の文を解釈すると・・・。

(16) I saw a dog on my way home.(家に帰る途中で犬を見ました。)
(17) I saw the dog on my way home. (家に帰る途中で、その犬を見ました。)

(16)の解釈は、話者が「聞き手はその犬を知らない」と判断したため”the dog”と言えず、初めて会話の中で話題に出したので、a dogとしている。
一方、(17)の文の解釈は、話者が自分の知識や文脈情報を受けてdogの対象を一つに絞っており、対象を聞き手もdogの対象を一つに絞れる(はず)と判断していることになる。この聞き手が知っている、対象を一つに絞れるという判断基準も、前後の話の流れ(テキスト内照応)からだったり、話者と聞き手が共通して持っている知識やその場の状況(外界照応)からだったりするわけである。

石田(2002)が示した条件から考えると、仮に新情報であってもtheが名詞に付くことがありえる。その場合、共通の知覚が互いにあると話者が信じているのである。この条件を考慮に入れtheの機能を再考すると、theの機能は問題となっている名詞の指示対象がどれであるか、聞き手がわかっているに違いないと話者が判断していることをあらわす文法標識であることがわかる(石田, 2002)。

3. 照応表現と定冠詞
「共通の知覚が互いにある(と信じている)」という観点から、新情報であってもtheが付き得ることがわかった。ここでは、uniquenessとfamiliarityの概念を基に、(4)の例文を間接照応(Indirect Anaphora)という概念を更に導入し、考察する。

3.1 直接照応
(18) I met a beautiful woman yesterday. She is a doctor working in a nearby hospital.

照応とは、(18)のような”a beautiful woman”(先行詞)とshe(照応表現)のような共指示の関係を言う(高橋, 1996)。この場合、a beautiful woman=sheとわかるので、明示的に共指示関係があることがわかる。このような照応表現を直接照応(Direct Anaphora)という(高橋, 1996)。

3.2 間接照応
一方、上記のような明示的な共指示の先行詞を持たない照応表現も存在する。

(19) A jet ran into some turbulent weather. To keep the passenger calm, the flight attendants brought out the beverage carts…

(19)の場合、the passengerとthe flight attendantsの先行詞はa jetである。しかし、そこには明示的な共指示の関係はない。このような暗示的な照応関係を間接照応(Indirect Anaphora)という(高橋, 1996)。

この暗示的な照応関係を成り立たせるのが、我々の持つ知識と経験である。jet(飛行機)にはpassenger(乗客)やflight attendant(客室乗務員)が乗ることを、我々は知識と経験から知っている。つまり、飛行機と聞けば、乗客と客室乗務員は必然的に連想されるのである。百科辞書的な知識から照応表現と先行詞の意味的なつながりが連想されるので、照応表現であるpassengerとflight attendantsに定冠詞のtheが付く。

語同士の意味的な強いつながりが連想されれば、先行詞は名詞でなくても良い。先にあげた(6)を考えると…

(6) She dressed her baby. The clothes were made of pink wool.

この場合、clothesの先行詞はdressになる。それは”dress”(〜に服を着せる)という動作にはclothes(服)が必要であると我々は理解しているからである。だから結果として、clothesに「『〜に服を着せる』という動作につきものの、『服』」といった共通の認識(familiarity)が生まれ、聞き手も名詞の示す内容を唯一的に同定(uniquely identify)する。よって、新情報なのにも関わらず、定冠詞theが付けられる。尚、石田(2002)は間接照応を前方照応のサブカテゴリーとして「連想による前方照応」と呼称している。

3.3 色々な間接照応
このほかにも様々な形で間接照応がある。下線部を引いた箇所が間接照応の表現である。

(20) I lent Bill a valuable book, but when he returned it, the cover was filthy, and the pages were torn.(「本」→「カバー」、「ページ」という「全体」→「部分」の間接照応

(21) John was murdered yesterday. The knife lay nearby.(「殺人事件」→「ナイフ」の間接照応。このナイフは殺人事件の凶器である。このような間接照応をbridgingという)

(22) I once hit a stuck window my fists to try to shake it loose. One hand went through a glass pane. It took ten stitches to close the wound.(窓を殴って出来た傷 因果関係から起る間接照応

(23) A: “What’s wrong with Bill?” B: “Oh, the woman he went out with was nasty to him.”(Aさんは、womanを知らないから、ここは不定冠詞を付けたいところなのだが、Billの調子の悪い原因ということで、theをつけている。同じく因果関係から起った間接照応

(24) My best friend Linda and her husband Rod recently divorced after eight years of marriage. The split was amicable, and I have kept in touch with him.(離婚という行為が含む概念は、分裂"split"である。よって、ある行為から起る概念の間接照応

4. 中学校の教科書分析
4.1 分析手法
Halliday and Hasan (1976)の指示の枠組みと間接照応の概念を考慮に入れ、中学校の教科書でtheがどのような機能を果たしているか量的に分析した。使用した教科書は任意に選定し、New Crown 1~3 (1997)、 New Crown 1 (2004)、New Horizon 1 (1997)、Total English 1 (2004)の6冊を使用した。これらの本文データをAntconcで読み込み、theが使用されている部分をピックアップし、一つ一つについて外界照応、前方照応、後方照応、楽器に付随するthe、間接照応に分類していった。

4.2 分析の結果
theの総数、各照応の個数、種類、割合とそのグラフはこちらを参照のこと

4.3 グラフの考察
1年生の段階では、写真や絵を指した外界照応によるtheが圧倒的に多かった。前方照応や後方照応もまだテキストが複雑ではないため、比較的少なく、写真や絵の場面を参照すればすぐにわかる、単純な外界照応で事足りた。ちなみにTotal Englishは、手持ちデータの都合でQ and Aも含めたので、前方照応が半数近くを占める結果になってしまった。

しかし、同じ1年生の教科書でも、1個だけだが間接照応が出現する。New Crownは、最新版だと素直な照応関係で事足りるようになってはいるが、theの使用に意識を払って奥付の説明の範囲内に収まるようにしたのだろうか?他の最新版の教科書も詳しく見てみると良いかもしれない。

2年生、3年生と学年が進むに連れてテキストが複雑になり、さらに最上級や序数が使われだすので、前方照応や後方照応の割合が増えている。そのせいか、間接照応の割合も少数にとどまってはいるものの、やはり増えている。にもかかわらず、奥付ではtheについての言及を1年生以降していないので、敏感な学習者にとっては新情報な上に、一見一つに特定できそうにないのに、何故theが付いているのか、疑問の種になりそうである。

ただ幸いなことに、どの間接照応も「全体→部分」から簡単に連想できるものだった。先にあげた(22)〜(24)のような抽象度の高い間接照応はまったくなかったので、教師側が間接照応について知っておけば、説明がすぐに出来るはず。

4.4 教科書で出てきた間接照応教科書分析を行っていて、見つけた間接照応を記す。

(25) Shun: Is this the cafeteria? Mihi: Yes, it is. The food is very good.

Total English 1” (2004) P.52より

「食堂→食べ物」という典型的な「具体物の全体→部分」の間接照応。中学生に提示するときは、「そこの食べ物は・・・」と訳すとわかりやすい?

ちなみに、このcafeteriaはセクションの一番初めに出てきており、明らかに新情報なのにtheがついている。発話者であるShun君はアメリカの学校には食堂があると知っていて、その知識を元にして、theをつけているのだろうか?アメリカの学校のことを知らない日本の中学生にとっては、少し不親切だと思う・・・。(今回は、外界照応扱いにした)

次に、外界照応か、間接照応かで判断がゆれた箇所を記す。

(26) My school is near Asahi station. I am a member of the guitar club. Every year our club gives a concert in the gym.

New Crown 1” (1997) P.90より

話者は自分の学校には体育館が一つしかないと知っているからgymにtheをつけている(外界照応)?
前に出ているschoolを受けて連想からの前方照応(間接照応)?(どっちとも取れるが、今回は間接照応扱いにした。)

5. まとめ
学校文法の名詞と冠詞の分類の仕方は、大雑把で矛盾や説明不足が多いので名詞と冠詞の概念を前発表と本発表では再整理した。その結果、名詞は我々の認知の仕方で可算・不可算の基準が変化しうることがわかった。また、指示関係にもテキスト内の情報の新旧のみならず、その場の状況、我々の持っている百科辞書的知識や、そこから起る連想も関与していることがわかった。

aとtheの共通点と違い
@共通点
aとtheはトークン(一定の種類・集合の個別の要素)に付く

A相違点
a: この後に続く名詞が表象しているものには、有界性があると話者が意識しているという文法符号
novelty(新規性=聞き手にとって新しい対象である)

the: この後に続く名詞は、聞き手にとって以下のものがあると話者が判断しているという文法符号
(i) uniqueness(唯一性=状況から唯一的に絞り込むことできる)
(ii) familiarity(既知性=話者も聞き手も対象について知っている)


これらは話者の判断である。また、(i)(ii)は前後の文脈や眼前の状況だけに限らず、互いの持っている知識、経験、因果関係、概念などから連想して出て来るものでも良い。(間接照応)

6. 英語教育へ提言できそうなこと
「theの使用には、我々の持っている百科辞書的知識や、そこから起る連想も関与している」ということは、theの導入には具体物を使って説明してあげたほうが生徒には理解しやすいのではないだろうかと、先生とチラッと話した。

また、「familiarityとuniquenessは互いの持っている知識、経験、因果関係、概念などから連想して出て来るものでも良い」ということは、不定冠詞を先に学ぶよりも、具体性の強い定冠詞を先に学んだほうが良いのではないだろうか?何故、現状では抽象度の強い不定冠詞から先に学んでいるのだろう?

皆さんはどう思われますか?

参考文献
石黒昭博(1999)『高校総合英語 Forest』 桐原書店
石田秀雄 (2002) 『わかりやすい英語冠詞講義』 大修館書店
高橋秀光 (1996) 『間接照応と認知文法−その1』 北海道大學文學部紀要44(3): 109-127
Halliday, M. A. K. and Hasan, R. (1976) Cohesion in English. London: Longman
Leech, G. (1981) Semantics: The Study of Meaning (Second Edition). Harmondsworth, Middlessex: Penguin
New Crown 1 (1997) 三省堂
New Crown 2 (1997) 三省堂
New Crown 3 (1997) 三省堂
New Crown 1 (2004) 三省堂
New Horizon 1 (1997) 東京書店
Total English 1 (2004) 学校図書
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2008年11月14日

Word List (Master Degree) 6

absurd・・・不条理な、常識に反した
accentuate・・・〜を目立たせる
amass・・・〜を集める、〜を積む
amid・・・〜の真ん中に
analogous・・・類似した、相似の
apologetic・・・謝罪の
ascertain・・・〜を確かめる
axiomatic・・・公理の、自明の
barrage・・・ダム
behoove・・・[it behoves O to do]〜するのがOに必要である 適当である
boast・・・〜を自慢する
bog・・・沼地、湿地
bumpy・・・でこぼこの
butcherbird・・・モズ
casserole・・・蒸し焼きなべ
catfish・・・なまず
caveat・・・利害関係通告、警告 但し書き
centipede・・・むかで
chrysanthemum・・・キク
coarse・・・粗雑な、粗悪な、劣等な
cohesive・・・密着した、団結した、結束した
conjugation・・・活用変化 結合、連結
construe・・・〜を解釈する
contiguous・・・接触している
corollary・・・推論、当然の結果
corpora・・・corpusの複数形
decipher・・・〜を判読する
declension・・・語形変化、屈折
deficient・・・欠けている
defy・・・〜を無視する
deictic・・・直示的な、指示的な
demean・・・〜の品位を下げる
detriment・・・損害、損失、不利
deviant・・・逸脱した、異常な
be devoid of・・・〜を欠いている、〜が全くない
diagrammatic・・・図表の、概略の
directness・・・率直
discourteous・・・失礼な、ぶしつけな
disparity・・・相違、不同
disperse・・・〜を四方に散らす 〜を分散させる
diverse・・・異なった
doodle・・・いたずら書きする
dub・・・〜に肩書きをつける
eligible・・・ふさわしい、資格の有る
ellipsis・・・省略
elusive・・・理解しにくい
eminent・・・有名な
ensue・・・続いて起る
equate・・・同等とみなす、同一視する
etch・・・〜を描く 〜を刻み付ける
exclaim・・・叫ぶ
exhaustive・・・徹底的な、網羅的な
expletive・・・補足的な
expound・・・(〜を)詳説する(on)
flirt・・・(・・・と)浮気をする(with)
flock・・・群れ
fountain・・・泉
foxtail・・・エノコログサ
frantic・・・気も狂わんばかりの、熱狂した、逆上した
germination・・・発芽、発生
ginkgo・・・イチョウ
glare・・・ギラギラする光
grapple・・・〜をつかむ
grist・・・興味ある事柄
henceforth・・・今後は、これからは
heuristic・・・発見的な
horticultural・・・園芸術の
idiolect・・・個人言語
imperative・・・避けられない、成さねばならない、必須の
incidental・・・付随して起る、ありがちな
inject・・・〜を注入する
innumerable・・・数え切れない
intelligible・・・理解できる、わかりやすい
intervene・・・(〜に)干渉する(in)
intricacy・・・複雑さ
intrigue・・・陰謀
irresistible・・・抵抗できない
irrigate・・・〜を湿らせる 〜を潤す
juxtapose・・・〜を並列する
knack・・・技巧、コツ、特技
laden・・・荷を積んだ、どっさり積み込んだ
lax・・・緩い、緩んだ
legitimate・・・妥当な
masquerade・・・仮面舞踏会
mingle・・・〜を混ぜる 混ざる
mitigate・・・〜を和らげる、〜を軽くする
mores・・・慣習、道徳規範
mutton・・・マトン
myriad・・・無数の
negligible・・・無視できるほどの 取るに足らない
node・・・結び目
obviate・・・〜を取り除く、〜を除去する
olfactory・・・嗅覚の
oriental・・・東洋の
ornament・・・装飾、飾り
ornamentation・・・装飾、飾り付け
outlandish・・・異国風の
oversee・・・〜を監視する 〜をこっそり見る
parole・・・誓言、捕虜宣誓
parsimonious・・・極度にけちな
pastor・・・牧師
peculiar・・・独特の、特有の、固有の
peripheral・・・周辺部にある←→focal:中心部の
perpetuation・・・永続させること
perplex・・・〜を(・・・で)当惑させる(with)
pertain・・・付随する、つき物である
pertinent・・・確信に関連する、適切な、要を得た
pheasant・・・キジ
pigeonhole・・・書類棚
plethora・・・過多、過度
poignant・・・身を切るような 痛烈な 心に強く訴える
posit・・・〜を置く、据える
posterior・・・後の
potency・・・力、潜在能力
precedence・・・先立つこと
preemtive・・・先買の 先制の
prerequisite・・・不可欠の、必須の
pretence・・・見せ掛け、ふり
prime・・・に(〜を)前もって知らせる(with)
prod・・・突くこと、
prodigy・・・不思議なもの 神童、天才児
profit・・・利益
prophetic・・・預言者の、予言的な
propitious・・・幸運な、都合の良い
pursuit・・・追跡、追撃
quaint・・・風変わりで面白い
radical・・・根本的な 急進的な
rake・・・熊手
rapport・・・関係、一致、調和
reciprocal・・・互恵的な
reciprocity・・・相互利益、互恵主義
redundancy・・・余分、冗長
regulatory・・・規定する、調整する
rehearse・・・〜を下稽古する
reinstate・・・〜を(・・・に/・・・として)復帰させる(in / with)
reiteration・・・繰り返し、反復
relegate・・・〜を格下げする、〜を落とす
relentless・・・情け容赦ない
reminiscent・・・思い出させるもの 思い出に関する
resurrect・・・〜を復活させる、〜を再び用いる
revolve・・・〜を回転させる
rubric・・・朱書き
sap・・・樹液、液汁 生起、活力
scalp・・・頭皮
schematic・・・概要の、図式の
scoff・・・あざ笑う
scrutinize・・・〜を綿密に調べる、〜を吟味する
sexism・・・性差別主義
shackle・・・手かせ、足かせ
shortcoming・・・欠点
shrike・・・モズ
shrug・・・〜をすくめる 肩をすくめる
sibling・・・兄弟
sieve・・・ふるい、こし器
skeletal・・・骨格の
slippery・・・理解しにくい
slug・・・ナメクジ
so-and-so・・・だれそれ、何とかさん
soar・・・舞い上がる
sophistication・・・世間慣れ、世間ズレ
sorely・・・痛ましいほど、激しく
spur・・・拍車 〜に発破をかける
staunch・・・信頼に足る
stinkbug・・・カメムシ
stockpile・・・食糧備蓄、備蓄品
suffice・・・(動詞)十分である
suffrage・・・選挙権、選挙
superficial・・・表面の、上皮の、浅い
superlative・・・最高の、無比の
tailor・・・仕立て屋
tapestry・・・タペストリー 〜をつづれ織りで飾る
tease・・・〜を(・・・のことで)いじめる(about)
tedious・・・うんざりする、退屈な、あきあきする
tenable・・・攻撃に耐えうる、批判に耐えられる
testimony・・・証拠、証明
tissue・・・組織、織物
touchy・・・神経質な、怒りっぽい
trite・・・ありふれた、使い古された
turnip・・・カブ
unravel・・・〜をほどく、ほぐす
urchin・・・わんぱく坊主、悪がき sea urchin・・・ウニ
veracity・・・正直さ、誠実さ、真実性
veterinarian・・・獣医
viable・・・成長した 実行可能な
vie・・・競う
watchdog・・・番犬
wholesale・・・大規模な、無差別の
wry・・・しかめられた
coalescence・・・合同
diacritical mark・・・発音区別符号
kudzu vine・・・葛
reductionism・・・還元主義
in contrast・・・対照的に
make friends with=be a friend of・・・〜と親しくなる
play fast and loose with・・・〜をもてあそぶ 〜に対して無責任である
so far・・・今のところは
suffice it to say here・・・ここまで言えば十分である
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2008年10月20日

不定冠詞の意味論

この間の授業で発表した内容を、ブログに掲載します。

1. 中学校の教科書と高校の参考書における不定冠詞の説明
1.1 Sun Shine I (平成17年度版)
・初めて登場したときの文
“Are you a junior high school student?”

“I am an international school student.”

・そのときの説明
a / an: 1つの〜 1人の〜(単語によってa/anと形が変わる場合がある)

・奥付の文法説明
数えられる名詞(dog, book)と数えられない名詞(tennis, water)を英語では区別している。1つ、2つ、3つと数えられる名詞の単数形にはaもしくはanを付ける。anは母音で単語の始まるものに付く。

不定冠詞は、使い方が難しく、よく使われるのにもかかわらず、これ以上の説明はなされていない。また、新出単語のところで、「数えられる」、「数えられない」名詞をわかるように記述してくれていない。(教師がいちいち教えるようになっている?それとも日本語と同じ認識で良いとしている?)

しかし、中1の教科書のProgram 5において、このような文が出てきている。

“Take a deep breath”←「1つの深呼吸」?「呼吸」は、数えられないはず。

→何をもって数えられるか、数えられないかが明示化されていない。

1.2 New Crown I (平成17年度版)における説明

・初めて登場したときの文
“This is a nice kite.”
“It is an animal. A bat.”

・奥付での説明
色々なものに付けられている名前を、名詞という。数えられる名詞のうちの一つを表すときには、aをつける。母音から始まる単語にはanをつける。

しかし、中学校3年生用のNew Crownの教科書では・・・。

“I would like to listen to African music”←日本語では音楽は数えられるのに不定冠詞がない

music(音楽)は、日本語では数えられる。(1曲、2曲、3曲)にもかかわらず、裸の状態で使われている。

→日本語と英語で物の数え方の認知の仕方が違う。その違いを中学校の教科書では教えていない。

1.3 『高校総合英語 Forest』における基本説明
高校の教科書には、取り立てての不定冠詞の説明がなされていなかったので参考書を例に挙げる。

・a / an・・・「1つの~」「ある〜」数えられる名詞の単数形と結びつく
eg. a table
・複数形や「数えられない名詞」とは、一緒に使えない
eg. *a tables *a water

・話の中で新しく出た名詞(新情報)に付く
A: “There is a pencil there.”  B: “It is mine.”

高校でも、どうやら「数えられるかどうか」ということが、重要らしい・・・。つまり、名詞の指す事物が、どういう性質のものかということが大事。

2. 高校の参考書における名詞の分類と、その問題(『高校総合英語 Forest』より)
参考書の説明では、名詞はaをつけることのできる可算名詞と、aをつけることのできない不可算名詞に二分することができるとしている。また、高校の参考書においては名詞を次の5つのカテゴリーに更に細かく分類している。

可算名詞・・・普通名詞 (car, dogなど)、集合名詞 (family, peopleなど)

不可算名詞・・・物質名詞 (iron, waterなど)、抽象名詞 (peace, happinessなど)、固有名詞 (London, America, Kenjiなど)(aをつけることが出来ない)


しかし、この二分法と五分法には疑問が残る。たとえば、普通名詞の単数形のはずなのに、aが落ちていたり、逆に数えられない名詞なのにaが付いていたりする場合も、世の中には見受けられるのである。

(1) After the accident, there was cat all over the road.(可算名詞なのに、aが付いていない)
(2) He did me a kindness.(aが付いている。kindnessは抽象名詞じゃないの?)
(3) I will have chicken /? a chicken today. (chickenって可算名詞じゃないの?)

参考書の説明では、このような例外を応用の部分で、「このようなときもある」といった具合に記載しているが、詳しい理由付けがなされていない。これではaをつけるための基準が恣意的なものとなり、学習者にとっては不定冠詞を使用することが困難となる。
更に、基礎を教えるはずの中学校も、よく使う単語のはずなのに、不定冠詞の機能については詳しくふれていない。また、「数えられる物」が、何を基準にしているのか明示されていないので、可算名詞と不可算名詞の基準があいまいで、学習者は混乱するものと思われる。
本発表では名詞の意味論に触れながら、認知言語学における「有界性」の概念を導入し、名詞の可算性とaの機能について再考したい。

3. 有界性
認知言語学においては、可算名詞(count noun)を、有界性 (boundedness)という概念を導入し、「ある空間領域の中で輪郭が見える(domainの中でboundaryが意識される)もの」と定義している(Langacker, 1987, 1990)。指示物の名詞に有界性があると意識される場合、名詞は可算性を帯び、可算名詞(count noun)となる。他方、指示物に有界性が意識されない場合は質量名詞(mass noun)となる(Langacker, 1987, 1990)。

さらに石田(2002)は、この定義をもう少し平易に解説しており、「ある名詞のあらわしている対象が、境界線によって仕切られているのかどうか」と説明している。この境界線の考え方は、必ずしも現実の事物を指さなければならないわけではなく、また対象の外見的特徴をそのまま反映しているわけでもなく、あくまで話者が言葉を通じて、その対象物をどのように捉えて(認知して)いるかが問題になる。よって、可算・不可算の分類は、認知のあり方で変わるということ。

4. 有界性に基づいた名詞の意味論と不定冠詞
aが名詞に付く条件(石田, 2002)
・ある名詞が表象しているものを、明確に仕切られた有界的な存在として話者が捉えている場合
→他の要素と区別が付くとき

4.1 普通名詞と不定冠詞
(5) (車の絵を見て)This is a car. *This is car.
→carという概念の集合の中から具体的な車を取り出している。

car: {車というものの種類=車という概念の集合}(タイプ
a car: {ある具体的な車}(トークン

不定冠詞aは、ある種類に属する要素の中で、他の要素と区別が付けられる場合に付ける(黒田 & Canty, 1986)。つまり、不定冠詞aは「種類」(タイプ)から、「ある具体的な個別の要素」(トークン)を取り出す働きを持つ。

4.2 集合名詞と不定冠詞
集合名詞にはaをつけることが(基本的には)できない。peopleの例を取り出して考えると・・・。

people: {人々の集合}

トークンとして取り出しても・・・
people:{人々} ←個別に取り出したとしても中身は複数

peopleの意味は、人々、つまりは「人の集合の集合」である。これから個別的に取り出しても中身は「人々の集合」である。よって一つの要素として取り出すことが出来ないのでaを付けることは出来ない。

しかし、a peopleやpeoplesと言える場合もある。この場合、peopleは、「民族」という意味になる。この場合、ドイツ人とかアメリカ人などの、ある一定の条件の下での人々の集合を「一つの単位」としてみている。そこに有界性が生まれるので、aと複数形が容認される(石田, 2002)

同じ理由で、familyも集合名詞であるfamilyとは、「家中にいる人々」という要素の集合、つまり「人の集まり、あるいは種類」を示す。だから、個別的に取り出してもこの場合、familyは「家に集まる人々の集合」だから、複数扱いとなり、aを付けることができない。

しかし、peopleと同じ理屈でa familyともいえる場合もある。この場合、家族を一単位としてみているわけである。このように、集合名詞であってもどこかで有界性が見出されれば、不定冠詞が付きうる(石田, 2002)。

4.3 抽象名詞と物質名詞に不定冠詞が付くとき
物質名詞と抽象名詞は、要素が集まって一つの集合をなしているわけではない。よって集合からの要素の取り出しは不可能なので、単体ではaを付けることができない。

iron: {鉄という種類}→個別的な取出しが出来ない
happiness: {幸せな心の状態}→個別的な取り出しが出来ない

しかし、aが付くのは話者の意識の中で有界性が認識される時なので、その条件が満たされれば抽象名詞と物質名詞にもaが必要になってくる。つまり、物質名詞や抽象名詞にheavyやlightなどといった修飾語句が付くことで、ある種類の中で判別が可能な要素が見えるとaが必要となる。

(6) This table is made of wood.(素材としての木)
(7) Pine is a soft wood and teak is a hard wood.(種類としての木)
(8) She has a deep knowledge of chemistry.(知識の中でも「深い化学の」知識)
(9) He felt a reluctance to accept my offer.(ためらいの中でも、「私の申し出を受けるための」ためらい)

最初にあげた、(2)の例も、「親切」という抽象名詞が、「ちょっとした親切な行為」として要素化されていると考えれば、kindnessにaが付くことには合点が行く。また、教科書のbreathの例も「普通、我々がするような呼吸とは違う深い呼吸」と違いが認識可能なので、不定冠詞を取り付ける。

4.4 無冠詞の場合の名詞の意味
先にも述べたように、aには明確な区切りがあると話者が捉えている場合に名詞に付くとした。では、普通名詞にaが付かない場合はどうなるだろうか?aが付かない場合、話者は「明確な区切りがない」と意識しているのだから、結果として可算名詞は不可算の質量名詞化するのである。

(10) There is a skunk on the road.(道の上にスカンクがいる)
(11) There is skunk all over the road. (道中にスカンクの肉片が散らばっている

(10)の場合、「スカンク」が道という空間で「スカンク」としての形を持って存在しているという解釈になるが、(11)の場合スカンクが「スカンク」としての形をとどめていない状態で存在するのである。つまり、スカンクは体がバラバラでグチャグチャの状態の肉片が道中に散らばっているという解釈となる

同じように(1)の例文はこのように解釈できる。
(1) After the accident, there was cat all over the road. (事故の後、道中にネコの肉片が散らばっていた。)

また、最初にあげた(3)の場合は、aを付けると「鶏の形が維持された状態で食べた」という意味合いになってしまうので文法性が落ちてしまう(ピーターセン, 1988; 石田, 2002)。この場合、食べるのは「鶏肉」で、その形は不定形である。よって、他との区別が付かないので不定冠詞aは付かないわけである。

他にも・・・。
(12) I had a boiled egg for breakfast.(朝ごはんにゆで卵を食べた)
(13) You have got egg all down your tie.(ネクタイのあちこちに卵が付いています。→『卵』としての形がない

5. まとめ
aの意味:「この後に続く名詞は、具体的な形が認識でき、他の要素と区別が付く」という文法符号
これがないだけで、名詞の意味が大きく変わってしまう。中学・高校ともにこの符号の重大性を認識しなさすぎでは?

参考文献
石黒昭博(1999)『高校総合英語 Forest』 桐原書店
石田秀雄(2002)『わかりやすい英語冠詞講義』 大修館書店
黒田和雄、Vincent Canty (1986) 『英語は冠詞で完成する』 リーベル出版
マーク=ピーターセン(1988)『日本人の英語』 岩波新書
Langacker, R. W. (1987) Foundations of Cognitive Grammar Volume1 Theoretical Prerequisites. California: Stanford University Press
Langacker, R. W. (1990) Concept, Image, and Symbol the Cognitive Basis of Grammar. New York: Mouton de Gruyter
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2008年10月12日

SLAにおける形式教授について

前期の言語習得論の期末課題で新しい知見だった部分をブログに掲載します。

Consciousness-raisingの目的と役割を説明せよ
文法教授(形式教授)を行ったからと言って、習得の道筋には影響を与えない。しかし、形式教授を行うことによって、習得の速さと成功度をあげることは可能となる。これを踏まえた上で、Consciousness-Raisingの説明を行う。
Schmid (1990, 1995)は、意識についての分析を行った。その結果、気づき仮説を提唱し、「気づき」は主観的に対象が経験されると起るとし、また学習者は書かれていることの意味には気づくことが出来るが、統語的な形には注意を払っていないことを指摘した。文法形式を習得するには、意識して形の違いに「気づく」ことが習得に必要であると結論付けたのである。このことから、習得するにはただ単にCommunicative Language Teachingを行うだけでは効果がなく、形の特性に意識を向けさせる(Consciousness Raising)ことが必要であると結論付けたのである。
よって、Consciousness-raisingは文法事項の特性をそのまま教えても効果が出ないということから視点を切り替えて、学習者自身に形の特性に「注意を向けさせる」手法である。Consciousness-Raisingの目的は、文法の形の特性に注意を向けさせることで、学習をより早く進めるための「近道」となることである。また、Consciousness-Raisingはあくまで学習の「手段」であり、それ自体が目的ではない。

Interface positionを説明せよ
Interface positionは習得と学習は互いに関係性があるとする立場である。これによると、学習者は様々な第二言語についての知識を持っているが、これらは完全に分断されているのではなく、一つの知識が浸透することで他の知識が呼び起こされるとしている。この立場には3つ存在する。

1、Non-interface position
習得と学習は、分断されておりお互いに独立しているという立場。Krashenの「習得と学習の仮説」がこれに当たる。学習とは、意識的なプロセスであり、学習された知識となる。一方習得とは、無意識の学習過程であり習得された知識となる。これらは互いに別物で、独立しているとしている。

2、Strong interface position
学習されたことは、直接習得された知識になるとする立場。Stevick (1980)、Bialystok (1979, 1981)、McLaughlin (1978)らがこの立場を取っている。それぞれに具体的に言及すると、Stevickは学習が浸透することで習得となるとしており、Bialystokは明示的な知識が練習を経て潜在的な知識となるとし、McLaughlinは制御された処理が自動化されることによって、自動的な処理となるとしている。

3、Weak interface position
学習された知識は習得過程を促進するとする立場。多くの研究者がこの立場を支持している。代表的な研究者はSeliger (1979)で、学習された知識は習得の促進者となり、習得された知識になるとしている。

入力処理理論を説明せよ
入力処理とは、入力が言語形式として実現されることである。言語は、形式と意味がある。特定の形式は、特定の意味を表すし、特定の意味は特定の形式を表す。つまり、形式と意味は相互に繋がりがあるわけである。(Form-Meaning Connections; FMCs) 言語を学ぶことは、この形式と意味のつながりを見つけることである。
従来の典型的なForm Focused Instruction(FFI)は、Presentation(文法事項の提示) Practice(文法事項の練習) Production(文法事項の表出)の形を取っている。(PracticeとProductionは口頭で行われる)しかし、この教授法には欠点がある。それは、presentationによる入力(input)をintakeにする具体的な方法が存在していないのである。
そういうわけで、input processingは、学習者に与えられたinputをintakeにすることを目的としている。そのために2段階の教授法を行う。第1段階は、明示的にFMCsを教授する伝統的な手法を取る。そして第2段階目に構成された入力活動(Structured Input Activities)を行う。これは、形式と意味のつながりに気づけるように多くの例を学習者に与える活動である。このような手法に教授法を変えることによって、学習者のinputがintakeになるようにする。
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2008年10月11日

モニターモデルについて

前期の言語習得論の期末課題でモニターモデルの復習と新しい知見を得たので掲載しておきます。

モニターモデルの5つの仮説を説明せよ
1、習得と学習の仮説 (Acquisition-Learning Hypothesis)
Krashenは、第二言語能力育成過程において「学習(learning)」と「習得(acquisition)」の2つを区別して考えた。学習は、意識的プロセスであり目標言語について「知る」活動である。一方、「習得」とは学習とは正反対に無意識的プロセスであり、目標言語を実際に使ってみて習得するというプロセスである。Krashenは両者を完全な別物であると考えている。というのは、習得は学習の結果というわけではなく、学習は習得になりえないとしている。

2、自然な習得の順序仮説 (Natural Order Hypothesis)
習得には予測可能な順番があるとする仮説。Krashenは、文法の習得には予測できる順番で行われると仮説を立てた。これは先の子どもの文法形態素の習得の観察で、子どもはある一定の順序の下で文法形態素を習得していることがわかったことから、他の文法事項についても同じことが言えるのではないかと推測して出来た仮説である。

3、モニター仮説 (Monitor Hypothesis)
学習で得た知識は、モニターの役割しか果たさないという仮説。学習で得た知識を元にして、学習者は自分の発話が正しいかどうか発話の前後に確認している。つまり、学習で得た知識は、このようなモニターの役割しか果たさないと考える仮設である。
発話を行うには、言語を「学習」するのではなく「習得」しなければならないと考えているわけである。

4、インプット仮説 (Input Hypothesis)
この仮説は、いかにして習得が行われるかを記している。習得を行うには「理解できる入力」を取り込んでのみ可能であるとしている。つまり、習得を行うにはその目標言語を浴びる必要があるわけである。習得が行われれば、表出はひとりでに出てくるのできょう教師は表出が出るまで理解できるインプットを与えなければならない。
次のステップに行くには理解できる入力より少しレベルの高い事項を与えればよい。この「少し高い事項を与える」ということを、メタフォリカルにあらわすと、これはi+1(i=その学習者が達しているレベル)となる。

5、情意フィルター仮説 (Affective Filter Hypothesis)
学習者の持つ目標言語に対する感情が習得に影響を与えるという仮説。学習者の持つ緊張や不安といった負の感情は、目標言語の習得を妨げるフィルターの役目をしてしまうと言う仮説。ということで、教師は学習者の不安や恐れを下げてやる必要がある。

Natural Approach (Krashen & Terrell)を概説せよ
Natural Approachは上記のモニターモデルを受けてTerrellが提唱し、Krashenが体系化した教授法である。それまでの教授法とは異なり、コミュニケーション能力の育成を目的としているのが特徴である。この教授法の概要は以下のとおりとなる。

1、コミュニケーション能力の育成が目的である
2、理解は表出に先行する。
3、表出はひとりでに出てくる
4、習得のための活動が中心である
5、学習者の情意フィルターを下げる

また、最適な入力についての条件も提唱している。最適な入力を達成するためには、その入力が理解できること、学習者にとって関連や興味があること、文法的に展開しないこと、一定量のインプットが必要であるということ、目標言語に対しての抵抗感を失くすこと、会話を続けられるようにすることがあげられている。

出力仮説の観点からモニターモデルを批判せよ
出力仮説は、Swainが提唱した仮説で、言語の習得のためには理解できる入力のみならず、理解できる「出力」も必要であると提唱している。出力には3つの役割がある。1つめはしゃべることでしゃべることを学ぶという役割。2つ目は、実際に発話することで自分の分が正しいかどうかを検証する仮説検証の役割、そして3つ目は理解という意味的なプロセスから統語的なプロセスへと移行するための役割があるとしている。
モニターモデルの欠点は、出力の機会を与えていないことである。その根拠はImmersion Programにおける学習者の研究である。目標言語を浴びているImmersion Programの学習者は、リスニングの能力は高い数値を示しているのに、表出時の文法の正確性が劣っていることがわかった。これは、理解できる出力が限られているからである。
モニターモデルによれば、理解できる入力を与えさえすれば表出がひとりでに行われるとしているが、そもそもモニターモデルは出力を望んでもいないし、出力を行うための機会も与えていない。そういうわけで、モニターモデルに則った教授法を行ってしまうと、学習者はしゃべることが学べないし、自分の中で体系化された文法を試すことも出来ない。更に、理解するということは言語的なプロセスではなく、心理的なプロセスである。表出することで心理的なプロセスから言語的プロセスに変わるのに、その機会が与えられていないため、先のimmersion programにおける学習者のように正確な発話が出来ない結果になってしまう。よって、入力のみに重きを置いたモニターモデルでは適切な言語教授を行うことは出来ない。

参考図書
小池生男(2003)『第二言語習得研究に基づく最新の英語教育』(第8版)大修館書店
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2008年08月04日

Word List (Master Degree) 5

accrue・・・(〜に/〜から)生ずる(to / from)
acrimonious・・・辛らつな
affirmation・・・断言 肯定
amid・・・〜の真ん中に
anticipation・・・期待して待つこと 予想 先手を打つこと
antidote・・・解毒剤
appraisal・・・評価、査定額
ascribable・・・adj(〜の)せいである(to)
ascribe・・・(SVO1 to O2)O1の原因をO2に帰する
audacity・・・大胆さ、あつかましさ
auspice・・・保護、援助
avocation・・・副業、趣味
awe・・・畏れ、畏敬
barring・・・〜を除いて
bestow・・・〜を(人に)授ける(on, upon)
beware・・・用心する、注意する
bewilder・・・〜を狼狽させる
binary・・・2つの、2つからなる
blueprint・・・詳細な計画 〜の計画を作る
bosom・・・胸 服の胸部 胸の中、愛情
captivate・・・〜を魅惑する
caricature・・・風刺、戯画
catalyst・・・触媒、触媒物
caveat・・・利害関係、通告、警告 (〜しないようにとの)但し書き、警告(against)
camber・・・私室
chimney・・・煙突
chore・・・半端仕事、雑用
chuckle・・・ほくそ笑む、くすくす笑う
circa・・・およそ
codify・・・〜を成文化する
conceive・・・〜を思いつく、考え出す (SVOC)OがCだと考える 〜と思う(that節/Wh節)
concur・・・(〜と/・・・のことで)意見が一致する(with / in)
conscript・・・〜を(〜へ)徴兵する(into)
corpse・・・死体、死骸
corroborate・・・〜を補強する、確証する、裏付ける
crevice・・・狭い裂け目
cricket・・・コオロギ
cunningly・・・悪賢く、ずるく、抜け目なく
debilitate・・・〜を衰弱させる、虚弱にする
degeneracy・・・堕落、退化
density・・・密集
depute・・・〜を代理に命ずる
diacritical・・・区別するための、区別を示す、区別できる
diffuse・・・〜を拡散させる
dim・・・薄暗い
disciple・・・門弟、弟子、門人
disfranchise・・・〜から市民権を奪う
dismember・・・〜の手足をバラバラにする
disobedience・・・不従順
dissect・・・〜を解剖する、切り裂く
dissimulate・・・〜を偽り隠す
downright・・・徹底的な、全くの
durability・・・耐久性、永続性
dwarf・・・〜の発育を妨げる 〜を小さくする
ecumenical・・・全般的な、普遍的な
eloquent・・・雄弁な
emulate・・・〜と競う、〜に負けないように張り合う
entice・・・〜を誘惑する
erroneous・・・誤った、間違った
espouse・・・〜を支持する、採用する
ethnocentric・・・自民族中心主義の
ethnography・・・民族誌
euphemism・・・婉曲語法
exaggerate・・・〜を大げさに言う
exemplify・・・〜を例証する
be exemplified in・・・〜で例示されている
exert・・・〜を(・・・に/・・・するために)使う(on, upon, over / to do)
exhaustive・・・徹底的な 消耗させる
feudal・・・封建的な
flattery・・・お世辞を言うこと
foam・・・泡 あわ立つ
focal・・・中心的な
furious・・・ひどく立腹した
fury・・・激しい怒り、憤激
gaily・・・陽気に、楽しく、華やかに
gasp・・・はっと息を呑む (〜を)求めてあえぐ(for)
generic・・・一般的な、包括的な
gesticulation・・・活発な身振り
harbor・・・〜に隠れ場所を与える、〜を匿う
hastily・・・急いで、あわてて、軽率に
hearken・・・〜を傾聴する (・・・に)耳を傾ける(to)
hoax・・・いたずら
hue・・・色 色の濃淡
hypocritical・・・見せ掛けの 偽善的な
idiosyncrasy・・・特異性、性癖 特異体質
impede・・・〜を遅らせる
impediment・・・障害、妨害
imperialism・・・帝国主義、帝政
inasmuch as・・・〜のために、だから ・・・だけれども
incubate・・・〜を孵化する 〜を企てる
indigenous・・・固有の、原産の
industrious・・・勤勉な
infuse・・・〜を注ぐ、注入する
ingrained・・・深くしみこんだ
intensity・・・激しいこと
interchange・・・〜を交換する 入れ替わる 交換、やりとり
interlocution・・・対話、問答
interplay・・・相互作用 互いに影響しあう
intersection・・・横切ること、交差
introversion・・・内に曲がっていること 内向
inverse・・・逆の、正反対の、あべこべの
latch・・・ドアの掛け金
leap・・・飛ぶ 踊る ひらめく
legislative・・・立法権のある
lobe・・・耳たぶ
lump・・・かたまり
lurch・・・急に傾くこと
marked・・・著しい、際立った
meantime・・・合間、その間
median・・・中央の、中間の
mercy・・・慈悲、情け、幸運、ありがたみ
mitigate・・・〜を和らげる 〜を軽減する
mockery・・・あざけり、からかい
monolithic・・・巨大な、どっしりとした、一枚岩の
monosyllabic・・・そっけない、無口な
nominalist・・・名目論者
nostril・・・鼻腔
notwithstanding・・・〜にもかかわらず それにもかかわらず、それでも
nourish・・・養う、育てる
oblique・・・斜めの、傾いた 遠まわしの、間接的な
obloquy・・・不名誉、恥辱
obscure・・・不明瞭な、ぼやけた 〜を見えなくする
ontology・・・存在論
overcharge・・・法外な値段を要求する 不当な値段
penetration・・・貫通力、浸透力
perpetuate・・・〜を永続させる
perplex・・・〜を当惑させる
perspiration・・・発汗、汗
plank・・・厚板、板
postulate・・・〜を仮定する、前提とする ・・・だと仮定する
precedent・・・前の (〜に)先行する(to)
preliminary・・・予備の、準備の
profound・・・深い 感銘深い
prone・・・adj(・・・の)傾向がある(to doing)
pulsation・・・脈拍
ramification・・・枝分かれ、細分化
rave・・・うわごとを言う
reclusive・・・孤独好きの
redundant・・・冗長な
refrain・・・差し控える、慎む
resonance・・・反響、響き
retroflex・・・反り返った
retrospective・・・回想の、追想にふける、回顧的な
reverently・・・うやうやしく、敬虔に
robust・・・強健な
sagacity・・・聡明さ 確かな判断力
scantling・・・小角材
scarcity・・・欠乏
scribble・・・殴り書きする
seepage・・・浸出、漏出
societal・・・社会的な
solicit・・・〜を請い求める
stalk・・・大またに歩く
startle・・・〜をびっくりさせる
stifle・・・〜の息を止める 〜を窒息させる
stilted・・・支柱で支えられた 誇張した、大げさな
stratification・・・層にすること 地層 階層化、成層化
stride・・・大またで歩く
subjacent・・・下方にある、隠れた
suppress・・・〜を鎮圧する
sway・・・ゆれる 揺れ動く (〜へ)傾く(to)
symptomatic・・・徴候となる
syncretic・・・諸説の、統合の
tamper・・・不法に加えて変える
tangle・・・もつれさせる
testimony・・・証拠、証明
thrust・・・〜をぐいと押す
thwart・・・〜を挫折させる
tomography・・・X線断層写真撮影法
tow・・・〜を綱で引っ張る 〜を引っ張っていく 引かれること、一引き
trifle・・・くだらないもの、つまらないもの
turmoil・・・騒ぎ、騒動、混乱
typology・・・類型学
undergird・・・〜の株を綱で絞めて補強する 〜を強化する
underpin・・・〜を下から支える
underpinning・・・土台 支持
undo・・・〜をほどく 〜をゆるめる
vehemently・・・激しく、熱烈に
versatile・・・多面的な才能がある
vex・・・〜をいらだたせる、やきもきさせる
vie・・・競う、張り合う(against)
vignette・・・ビネット 人物や場面の描写 〜のビネットを作る
villain・・・悪人、悪者
vociferous・・・adj 大声で叫ぶ、絶叫する
vulture・・・ハゲワシ
wearisome・・・疲れさせる 退屈な、うんざりさせる
well・・・井戸
yell・・・大声をあげる、鋭く叫ぶ 〜を大声で叫ぶ わめき声
banqueting hall・・・宴会場
disproportionately・・・異常に、過剰に
endorsement・・・是認、支持
enhancer・・・向上させるもの
intricately・・・入り組んで
at first blush・・・一見したところでは
truancy・・・ずる休み
triangulation・・・三角測量
marginalize・・・〜を主流から排斥する
jaded・・・(〜に)疲れきった(with)

出典・・・ジーニアス英和辞典
posted by ブラック・マジシャン at 00:05| 兵庫 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 勉強・学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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